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自分で自分の始末をつけ得ないのが人間の悲しさである

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Dharma wheel

法語法話 平成14年

人間を本当に自覚させるのが…
めぐり合うたよろこびこそ…
他力の生活は最後まで…
かぎりない智慧と慈悲こそ…
善人も悪人もひとしく…
他力ということは…
私は死ぬまで煩悩具足の凡夫です
念仏の中で阿弥陀佛に…
すべての自力は他力に…
自分で自分の始末をつけ得ない…
幸いを求めて弥陀を信ずる…
たりき たりきと おもうていたが…
闇の中から闇を破るはたらきは…

book:ポータル 法語法話2002

高光 大船(たかみつ だいせん)
1879年、石川県生まれ
『道ここに在り 高光大船の世界』(東本願寺出版部)より


 高光大船(たかみつだいせん)師の言葉は簡潔(かんけつ)で明瞭(めいりょう)である。すべてが直言(ちょくげん)であるため、知識や常識で受けとめようとしても木っ端(こっぱ)みじんに砕(くだ)かれるだけである。

 煩悩具足者(ぼんのうぐそくしゃ)は煩悩不足者とは違う。
 ・・・・・・自分の経験で思案分別(しあんふんべつ)を立てておれる煩悩不足者に、 他力本願(たりきほんがん)という真理が信知(しんち)できるものでない

 我(われ)にもあらぬ我を我と思って、自我(じが)に我執(がしゅう)して、この自我で人を求め、世を求め、国土を探している間は、すべて得るところの結果の泡沫(ほうまつ)の悲しきものに過ぎないであろう。

 回心(えしん)なき聴聞(ちょうもん)は自力(じりき)の聴聞であり、ただなる徒労(とろう)である。

   『道ここに在り 高光大船の世界』東本願寺出版部刊より)

 このように、師が具現(ぐげん)する言葉はなにも文章だけではなく、おそらく説教でも日常会話でも同じように自在(じざい)に語られていたのだろう。しかも「信念を衣食(いしょく)とする生活」から発せられたひと言(こと)ひと言には、論理も解釈(かいしゃく)も説明も不要であったに違いない。

 「最近の坊さんの説教は難しくてちっともわからん」ということを門信徒からよく聞くことがある。難しいというからには話が理屈(りくつ)っぽくてわかりにくいということだろうが、どうもそれだけではなさそうだ。言葉が生きてもおらず、響(ひび)いてもこないということが重なっているようだ。

 かつて「日本の子どもたちの瞳(ひとみ)から輝(かがや)きが消えてしまった」と、海外から帰ってきた友達から聞いたことがある。今も輝きを失ったままの子どもたちの状況(じょうきょう)は、何一つ変わっていないし、一年間に三万二千余人もの人が、自(みずか)ら命を絶(た)たざるを得ない社会全体の闇(やみ)も深刻(しんこく)だ。

 それにもかかわらず、いまだにあらゆることを知的に分析(ぶんせき)して理解することが不安と闇(やみ)をはらう最善の策(さく)であると信じる人が増えてきたようだ。書店に行っても、「わかる」というタイトルのついた本が目につくようになった。『一目でわかる○○』『よくわかる○○』もあれば、『親鸞(しんらん)がわかる』という本までもある。あらゆることがわかることによって問題が解決されるならば、六百六十六兆円もの国や自治体の借金の返済(へんさい)も、過労死(かろうし)や児童虐待(ぎゃくたい)をなくすことも、戦争や環境破壊(かんきょうはかい)なども一気に解消することができるだろう。

 しかしこの国では、わかって安閑(あんかん)と評論する知識人は非常に多くなってきたが、人の世の悲しみを抱(いだ)き続ける人は少なくなってきたようだ。知識も才能も、煩悩を増長(ぞうちょう)するものだという深い嘆(なげ)きから、「そんなものは分別(ふんべつ)じゃ!」と斬断(ざんだん)する人もいなくなってしまったし、知識だけでは自分の生死(しょうじ)の解決の始末(しまつ)すらもつけ得ないことに悲しみすら感じなくなってしまった。

 また、師は「人間生活が無始(むし)から無終(むじゅう)に続く一本道の迷道(めいどう)であり暗黒道(あんこくどう)である以上、驚異(きょうい)なしの聞法(もんぽう)や、蓄積(ちくせき)的の聴聞(ちょうもん)や記憶が何で聞くことになるものぞ」と叱責(しっせき)している。知性を破(やぶ)って聞く者の身体の内奥(ないおう)にまで響いたであろう、生前の師の説法に遭(あ)えなかったことが残念でならない。

和田 浩(わだ ゆたか) 石川・浄泉寺

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。