操作

私は死ぬまで煩悩具足の凡夫です

提供: Book

Dharma wheel

法語法話 平成14年

人間を本当に自覚させるのが…
めぐり合うたよろこびこそ…
他力の生活は最後まで…
かぎりない智慧と慈悲こそ…
善人も悪人もひとしく…
他力ということは…
私は死ぬまで煩悩具足の凡夫です
念仏の中で阿弥陀佛に…
すべての自力は他力に…
自分で自分の始末をつけ得ない…
幸いを求めて弥陀を信ずる…
たりき たりきと おもうていたが…
闇の中から闇を破るはたらきは…

book:ポータル 法語法話2002

清胤 徹昭(きよたね てつしょう)
1930年、広島県生まれ
『「歎異抄」を仰いで』(本願寺出版社)より


聖人の悲しみ

 親鸞聖人は九十年の生涯でした。当時の平均寿命は、おそらく三十歳もなかったといわれる時代の九十年でした。たいへんなことだったろうと思います。それにもまして、聖人の生涯には最後までさまざまなことが起こります。

 六十歳を過ぎてからご家族で関東から京都へ戻られるのですが、晩年を夫婦で一緒に過ごされたのではありません。妻の恵心尼(えしんに)さまは越後(えちご)へ帰っていかれるのです。どのような事情があったのでしょうか。ともかくも、年老いた聖人を京へ残していかねばならないほどのわけがあったに違いありません。聖人の最期を看取ったのは妻の恵心尼さまではなくて、末娘の覚信尼(かくしんに)さまでした。

 また、八十四歳の時には悲しい事件が聖人をおそいます。息子の善鸞(ぜんらん)さまを義絶しなければならなかったことです。最晩年になって親子の縁を切らねばなりませんでした。善鸞さまは聖人からの命を受けて関東に行かれたに違いありませんが、聖人が言われたこととは違う教えを説き、関東の念仏の同行(どうぎょう)を混乱させました。


これが言えるしあわせ

 聖人はご和讃の中で「是非(ぜひ)しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり少慈少悲(しょうじしょうひ)もなけれども 名利(みょうり)に人師を(にんし)をこのむなり」(註釈版聖典622頁)とご自身のことを述べられます。

 関東からの便りでは、息子の善鸞さまが間違ったことを言っているという情報は早くから届いていたことでしょう。けれども、まさかという思いがあり、すぐには信じがたいものでした。もっと早く適切な処置をしていれば、息子を義絶するような、念仏の仲間から追い出してしまうようなことをせずにすんだろうにと、悔やまれたことでしょう。京都で「お師匠さま、先生」といわれていい気になって、入ってくる情報を何が正しくて何が間違っているのか、見分ける力もなくて、とうとう息子一人を救うことができなかったと泣かれた言葉です。「少慈少悲」とは仏さまの大慈大悲に比べる言葉です。人間の慈悲というものですが、それさえもないと泣かれました。このときほど、自信は凡夫であると思い知らされたことはないでしょう。

 ところがその聖人は、八十五歳の時に「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識(ししゅちしき)の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」(註釈版聖典610頁)という有名な恩徳讃(おんどくさん)を作られました。八十五歳の老人が、私は生命を捨ててもお礼をし尽くすことができないほどの、大きな大きな幸せをいただいたと喜ばれた言葉です。聖人にとって、わが子さえも救えない凡夫であることをいやと言うほど知らされることは、お念仏に出遭(であ)えたことにほかなりませんでした。

武田 達城(たけだ たつじょう) 大阪・千里寺

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。