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たりき たりきと おもうていたが おもうたこころが みな じりき

提供: Book

Dharma wheel

法語法話 平成14年

人間を本当に自覚させるのが…
めぐり合うたよろこびこそ…
他力の生活は最後まで…
かぎりない智慧と慈悲こそ…
善人も悪人もひとしく…
他力ということは…
私は死ぬまで煩悩具足の凡夫です
念仏の中で阿弥陀佛に…
すべての自力は他力に…
自分で自分の始末をつけ得ない…
幸いを求めて弥陀を信ずる…
たりき たりきと おもうていたが…
闇の中から闇を破るはたらきは…

book:ポータル 法語法話2002

森 ひな(もり ひな)
1887年、石川県生まれ
『鈴木大拙選集 第六巻』(春秋社)より


 この詩(法語)は『鈴木大拙(すずきだいせつ)選集 第六巻』に選ばれている現代妙好人(みょうこうにん)のお一人、森ひなさんの言葉である。

 大拙師は、「妙好人は割合(わりあい)にひろく分布(ぶんぷ)しているようである。仔細(しさい)に調べて見ると、現在の日本中にも、可(か)なりに多数あると推定(すいてい)せられる」と紹介されている。私と同じ石川県内の小松(こまつ)に妙好人と言われた森ひなさんがおられたことを以前お聞きしていたが、お目にかかるご縁(えん)もなく過ぎてしまった。ひなさんの時代は老いも若きも幼きもお寺に足を運ぶ時代であって、ひなさんも幼い頃から手を引かれて聴聞(ちょうもん)されていたようである。今まで何となく聴(き)いていた仏法(ぶっぽう)を真剣(しんけん)に聴聞されるようになったのは、大切な我が子の死に出会われたことからであった。聴聞を重ねられたが、聴聞には計(はか)らいがつきものである。聴聞に明(あ)け暮(く)れたひなさんは、「他力(たりき)、他力と思っていたその思いが自力(じりき)であった」と述懐(じゅっかい)されている。 他力宗は他に依存(いぞん)するように言われる向きもあるが、ひなさんは“自分のひと思いも自分ではない、仏さまのお計らい”と言う。自分の計らいの尽(つ)き果(は)てたところに親さまに遭(あ)えたといって南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の喜びが次々と綴(つづ)られている。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の御作(おんさく)『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』総序(そうじょ)の終わりに「愚禿釈(ぐとくしゃく)の親鸞、慶(よろこ)ばしいかな、西蕃(せいばん)・月支(がっし)の聖典(しょうでん)、東夏(とうか)・日域(じちいき)の師釈(ししゃく)、遭(あ)いがたくして今遭(あ)うことを得たり。・・・・・・」(聖典150頁)と示されてある。八百年の歳月(さいげつ)を経(へ)た現代も本願(ほんがん)に遭えた慶びは同じである。

 詩をたどっていきまして、ひなさんの日常生活をうかがうと、「毎日のご縁でいろいろ計らうことが多いが、計らいが尽きて ただのただ ああ ありがたい 南無阿弥陀仏」と結んである。続いて、「無明煩悩(ぬみょうぼんのう)の身に、仏様の光明(こうみょう)が届いて下さって心の目が開いた、今までの自分が恥(は)ずかしい」と言われています。一声(ひとこえ)の称名(しょうみょう)も自分で称(とな)えていると思っていたが、仏の呼び声であったことのありがたさを讃嘆(さんだん)している、ひなさんである。

 地獄一定(じごくいちじょう)、地獄行きと決定したら、もう地獄も極楽も気負(きお)う必要がなくなったというひなさんでもある。『歎異抄(たんにしょう)』第二条に「いずれの行(ぎょう)もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀(みだ)の本願まことにおわしまさば、・・・」(聖典 627頁)とあるご心境(しんきょう)と、ひなさんのご信心(しんじん)は一つと言えましょう。今、自分がこの仏縁(ぶつえん)に遭えたのは、遡(さかのぼ)れば、釈尊(しゃくそん)、三国七高僧(さんごくしちこうそう)、親鸞聖人、蓮如上人(れんにょしょうにん)、代々の善知識(ぜんじしき)のおかげと、深い慶びを尊(とうと)いといただくひなさんの姿を彷彿(ほうふつ)とする。

 ひなさんは、阿弥陀さまと自分は親子であると。人間の親子には別れがあるが、阿弥陀さまとの親子は永遠である。ひなさんは「阿弥陀さまとご縁が結ばれたおかげさまで、何時命が果てようと、南無阿弥陀仏のお手の中」と詩は結ばれている。

 以前に私は、妙好人『浅原才市(あさはらさいち)の歌』(法藏館刊)を出版させていただいたことがある。この妙好人、森ひなさんの詩をとおして、私なりに綴(つづ)らせていただいた。妙好人の中には一文不知(いちもんふち)と言われる方もあるが、共通して言えることは、弥陀の本願、南無阿弥陀仏に遭われた方々であって、みなその慶びが溢(あふ)れて、言葉となり文字となって残されていることは、ありがたく、尊いことである。永遠の宝を常に発信(はっしん)してくださっている仏さまの呼び声を身に賜(たまわ)って、一日一日を大切にいただいてまいりたいと思うことである。

藤原 利枝(ふじわら としえ) 石川・浄秀寺

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。