めぐり合うたよろこびこそ生きたよろこびである
提供: Book
![]() 法語法話 平成14年 |
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人間を本当に自覚させるのが… |
めぐり合うたよろこびこそ… |
他力の生活は最後まで… |
かぎりない智慧と慈悲こそ… |
善人も悪人もひとしく… |
他力ということは… |
私は死ぬまで煩悩具足の凡夫です |
念仏の中で阿弥陀佛に… |
すべての自力は他力に… |
自分で自分の始末をつけ得ない… |
幸いを求めて弥陀を信ずる… |
たりき たりきと おもうていたが… |
闇の中から闇を破るはたらきは… |
舘 熈道(たち きどう)
1908年、富山県生まれ
「人間をみつめて-ある念仏者の人生論-」(永田文昌堂)より
何しに来たか
ある先生に、村上志染という方の"水馬(みずすまし)"という詩を教えていただきました。
「方一尺の天地 水馬しきりに 円を描ける
なんじ、いずこより来たり いずこへ旅せんとするや?
ヘイ!忙しおましてな!」
大阪で生まれ育った私には、最後の一言だけがなぜ関西弁なのか少し文句を言いたいのですが、今はそれは置いておいて。
みずすましにとっては、一辺が一尺(約30センチ)ほどの水たまりであっても、それが世界です。忙しく円を書くように動きまわる水馬に、だれかが尋ねました。「おまえは、毎日くるくる動いているが、どこから来てどこへ行くつもりなのか?」。それに対して「忙しくてそんなこと考えているひまはない」とみずすましが答えるのです。
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』に「世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており」(現代語版聖典95頁)と示されてあるすがたです。
今度は、関西の詩人で杉山平一という方の"生"という作品です。
「ものを取りに部屋へ入って 何を取りにきたか忘れて 戻ることがある
戻る途中で ハタと思い出すことがあるが その時は すばらしい
身体が先にこの世に出てきてしまったのである
その用事は何であったか
いつの日か 思い当たることのある人は 幸運である
思い出せぬまま 僕は すごすごあの世へ戻る」
最後は杉山さんの謙遜だと思いますが、厳しい言葉です。
さよならしないよろこび
広島県の布教使の方に教えてもらいました。安芸門徒という言葉の残る広島では、
「おまえなにかい 人間かい どこから生まれてどこ行くかい 来たとこ行くとこ知らんかい おまえそれでも人間かい」。
事情のわからない人に突然言えば喧嘩を売っているような言葉ですが、誘い合わせて聴聞しようという時に言うのだそうです。
この私は、何のために生まれ、そして今日を生き、これから死んでいかねばならんのか、さあ、その答えを聞きにお寺へまいろうよ、というときに掛け合う言葉でありましょう。
ところが、その答えを聞いてみるぞと、まいってみれば、それは私が聴こうとして聞こえる答えではなかったようです。
「めぐり合うたよろこび」とは、計画して会ったのでもないし、頼み込んで会えたのでもなさそうです。私がこちらから出かけて行って会うことばかり考えていたが、思いもかけず仏さまの方から私にしかけていただいていた出遇いであったということなのです。
「めぐり合うたよろこび」とはそのようなよろこびであり、私がつかんだものでないだけに、けっして「さよなら」しないよろこびなのです。
武田 達城(たけだ たつじょう) 大阪・千里寺
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。