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すべての自力は他力にささえられてあった

提供: Book

Dharma wheel

法語法話 平成14年

人間を本当に自覚させるのが…
めぐり合うたよろこびこそ…
他力の生活は最後まで…
かぎりない智慧と慈悲こそ…
善人も悪人もひとしく…
他力ということは…
私は死ぬまで煩悩具足の凡夫です
念仏の中で阿弥陀佛に…
すべての自力は他力に…
自分で自分の始末をつけ得ない…
幸いを求めて弥陀を信ずる…
たりき たりきと おもうていたが…
闇の中から闇を破るはたらきは…

book:ポータル 法語法話2002

鈴木 章子(すずき あやこ)
1941年、北海道生まれ
『還るところはみなひとつ』(東本願寺出版部)より


 少し前のことになりますが、テレビの対談(たいだん)での席で言われた言葉が強烈(きょうれつ)に響(ひび)き、今でもしっかりと残っています。その対談での最後(さいご)の質問は、「今、あなたの一番の喜(よろこ)びは何ですか」ということでした。その問いに対して、その方は「朝、目が覚めることです」と間髪(かんぱつ)入れずに答えられたのでした。言われるであろうと予測(よそく)していた答えとは全(まった)く異(こと)なるものでした。朝、目が覚めることなど当たり前のことになっています。それと同じく、心臓(しんぞう)が動いていることも、呼吸(こきゅう)していることも、まるで自分の力動かしているように思い、与えられたいのちを生かされていることなど、すっかり忘れて日々を生活している有様(ありさま)です。

 世の中が、まるで自分中心にまわっているかのように過(す)ごしていた若い頃、大きな夢を抱(いだ)き、その夢は現実にかなえられるものと信じていました。自分の考えは間違っていないと確信をもち、自分さえがんばればその成果があるものと自分の力を信じ、それに満足していたのでした。結婚してもそれは変わらず、その日々の生活が意(い)のままになることも、ただ自分の力と思い、そのことに何の疑(うたが)いも感ずることなく過ごしていたのでした。

 ところが、結婚して十一年目、夫は1ヶ月の入院ののち亡くなったのです。全(まった)く予期(よき)せぬことがおこりました。この世に生を受けた限り、必ず死を迎(むか)えることと理解(りかい)していても、突然に相手側から断(た)ち切られたような別れにやり場のない悲しみを受け入れることはできませんでした。今まで自分の思いどおりに進んできたことが音をたてて崩(くず)れ、自分の都合(つごう)や計(はか)らいが全く通用(つうよう)しないことを、これでもか、これでもか、と知らされたのでした。

 もんもんとした日々が続きました。まわりの人たちからは「大変だけどがんばってね」「子どもさんのためにがんばってね」と、がんばれ、がんばれの励(はげ)ましを受けました。私のために言ってくださっていることとわかるのですが、それを聞く私は、「これだけがんばっているのに、何をどうがんばればいいの、がんばろうと思ってもどうしようもできないのに」と、思うばかりでした。そして思いどおりにならないこととはわかっていても、がんばって何とかしようと必死になり苦しみ、思いどおりに進まないと、いら立ちを相手に向ける始末(しまつ)でした。

 そんな頃のことでした。聞法会(もんぽうかい)の席で講師(こうし)がお話の中で「がんばらんこっちゃ、決めんこっちゃ」と言われたのでした。今までがんばれと言われ、がんばるんだと思っていたことと全く反対のことでした。このお話を聞かせていただき、がんばっているんだという自己満足(じこまんぞく)にひたってきた自分が見え、がんばらんでもいいのだと思うと、肩の力が抜(ぬ)けて、とても楽になったのでした。自力(じりき)でがんばってきたと思い込んでいた今日までの日々は、まわりの大きな愛に包まれ、支えられてこその自分の力であったということを知らされたのでした。

 おかげさまで今朝(けさ)もさわやかに目が覚めました。心臓もしっかり動いてくれています。空気もおいしいです。照りつける太陽のもとで、しっかり草木も育っています。計り知れぬ自然の恵み、目に見えぬ大きな力の支えが、自分に向けられ、こうして賜(たまわ)ったいのちを生かされ、生きていることに喜び、感謝しています。

梅原 慶子(うめはら きょうこ) 石川・本龍寺

東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。