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念仏の中で阿弥陀佛に懐かれている自分がここにいる

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Dharma wheel

法語法話 平成14年

人間を本当に自覚させるのが…
めぐり合うたよろこびこそ…
他力の生活は最後まで…
かぎりない智慧と慈悲こそ…
善人も悪人もひとしく…
他力ということは…
私は死ぬまで煩悩具足の凡夫です
念仏の中で阿弥陀佛に…
すべての自力は他力に…
自分で自分の始末をつけ得ない…
幸いを求めて弥陀を信ずる…
たりき たりきと おもうていたが…
闇の中から闇を破るはたらきは…

book:ポータル 法語法話2002

岡 亮二(おか りょうじ)
1934年、和歌山県生まれ
「念仏にあそぶ」(『りゅうこくブックス90』)より


念仏をとなえてください

 現代人は、「信心」というと、知性的で学問的で、奥深いことのように思い、「念仏」はどこか、古くさく、格好の悪いように考えてしまうようです。信心は受け入れるけれども、念仏をしないという人もあるようです。

 『歎異抄(たんにしょう)』に残されているエピソードですが、親鸞聖人が晩年、京都でお住まいの時に、関東から懐かしい門弟たちが訪れました。いずれも命がけで京都までやってきたのです。その理由は「念仏一つで往生できるのかどうか」という問いを上人にぶつけるためでした。

 命がけですから、答えようによっては「おいのち頂戴します」という厳しい雰囲気であったことが想像されます。その問いに対して、親鸞聖人も気迫にみちた答えを展開します。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知(ぞんじ)さぜるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」(註釈版聖典832頁)。

 そして最後には、念仏を信じるか捨てるのか自分できめなさいと突き放しす。これほどの厳しい答えはありません。


遊びの境地

  お念仏は、私の心を理屈でいじくりまわして称(とな)えるものではないようです。そのこころを、岡師は、たとえば遊びの境地のようなものではと申されます。誰しも遊びに夢中のときには我を忘れます。正確には我が心を忘れます。状況は説明できても心は忘れているのですから、あとになって説明のしようがありません。

 清沢満之(きよざわまんし)師の弟子であり、七十六歳の時に真宗大谷派の総務総長をつとめられた暁烏敏(あけがらすはや)師は、著書『歎異抄講和』の中で、次のように語っておられます。

 「道友諸君、どうか、始めのあいだは無意味でもよろしいですから念仏を称えてくださいませぬか。念仏が称えられぬようでは信仰を得ることもなかなかむずかしいことと思われます。始めは嫌々ながら称えた念仏でも、ついには仏の力でもう捨てられぬ大なる慰めを得るようになります。これは私の経験してことであります。どうか諸君私とともに念仏を称えてください。法然上人とともに、親鸞聖人とともに、南無阿弥陀仏を称えてください。」

武田 達城(たけだ たつじょう) 大阪・千里寺

本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。