善人も悪人もひとしく求道の親しい友である
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![]() 法語法話 平成14年 |
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人間を本当に自覚させるのが… |
めぐり合うたよろこびこそ… |
他力の生活は最後まで… |
かぎりない智慧と慈悲こそ… |
善人も悪人もひとしく… |
他力ということは… |
私は死ぬまで煩悩具足の凡夫です |
念仏の中で阿弥陀佛に… |
すべての自力は他力に… |
自分で自分の始末をつけ得ない… |
幸いを求めて弥陀を信ずる… |
たりき たりきと おもうていたが… |
闇の中から闇を破るはたらきは… |
九條 武子(くじょう たけこ)
1887年、京都府生まれ
『親鸞に出遭った人びと1』「九條武子」(同朋舎)より
安らかに
『日常勤行聖典(ごんぎょうせいてん)』のなかには、「さんだんのうた」、「らいはいのうた」とよばれる意訳(いやく)勤行があります。この意訳勤行の最初に「礼讃文(らいさんもん)」とよばれる言葉があります。紹介しますと「われ今幸いに まことのみ法(のり)を聞いて 限りなきいのちをたまわり 如来の大悲にいだかれて 安らかに日々をおくる 謹んで 深きめぐみをよろこび 尊きみ教えをいただきまつらん」というものです。
日曜学校でこのお勤めを皆でしたあと、リーダーの中学生がため息まじりに言いました。「ひとつも安らかなことはない。このあいだから自転車は盗られるし、試験の成績はよくなかったし、クラブではしごかれるし」とぼやくのです。どうやら宗教というものは、現実の苦しみやつらいことが消えてなくなり、何でも自分の思いどおりになるものと考えているようです。「安らか」とは、何事も起きないという意味でしょうか。
仏さまをものさしとして
今から四十年ほど前の本願寺から出されたもので、「世尊(せそん)を世間解(せけんげ)と申し上げます。釈尊が成仏(じょうぶつ)を宣言されたとき告げられたおことばに 一切世間に於いて一切世間を離れ一切世間に住す という一偈文があります」と係れているリーフレットが私の手元に残っています。
釈尊がさとりをえられたということは、別天地に遊ぶことではありません。天上界にすましこんでいることでもありません。出世間という言葉を誤解して、仏さまを現実の生活から切り離し、遠く死んでから先の話にしてしまうのは間違いです。出世間とは世間において世間を離れることを言います。私たちは世間において世間に縛られているのです。損得、成敗、名誉や利益、人情と義理に汲々としている毎日です。釈尊は世間にあって世間を離れ、しかも世間に安住されるといいます。
しかし、私はお釈迦さまではありません。私たちにとって「世間を離れ世間に住す」とはどのようなあり方を言うのでしょうか。
『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』の中に「仏法をあるじとし、世間を客人(まろうど)とせよといへり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと云々」(註釈版聖典1281頁)とあります。私たちがなすべきことは、仏法を基準として、仏さまのおこころをものさしとして、この現実社会を行きぬくことであります。信仰に入れば、自分にとって都合の悪い人や嫌いな人がいなくなるというようなものではないのです。善も悪も、善人も悪人も、念仏を味わうきっかけとみなし、仏さまのはたらきに出遭(であ)う道場として、生き抜けよと言われるのです。
武田 達城(たけだ たつじょう) 大阪・千里寺
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。