三十三 ひとの涙 「九条 武子」
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あるときは 毒薬のごと おそれつつ
人のなみだを ぬぐはでありけり
(九条 武子)
仕合せ
ぽやぽやっとした仕合せは、人を最低の心境におとしこむ。ちょうど麻薬のような働きをもつ。
家庭は人に馬鹿にされる程ではない。女として器量はよい。貧しくはない。人なみより増しの学歴をもっている。流行の尖端をゆく程、アホウではないが、地味に貴賓を身につける。家屋敷小ならず。若さの故に病気を知らず。両親健在でやさしく賢い。人間は己おのれの持場を守って平和であるべきだと、自分も真面目であるつもりでいる。どこの馬鹿者が不幸に泣くのか。泣く人はきっとどこかが間違っているのだ。めそめそと不幸に泣くなんていやらしい。泣く人は大きらい。
そうして、人の涙を毒薬を見る程、きらっていたけれど、自分自身がせんすべなく不幸に立ち、夜がな日がな、涙にくれることになって、涙とはこんなものかと知れた。今日では、涙する人あらば寄り添って、自分のハンカチで拭いてやります。涙をおそれた頃の恥ずかしや。不幸が私を鍛えました、と。
苦しみ
賢い人に、仏は信ぜられない。自分は賢いと感じている人が、賢い人である。心の汚さ愚かさを知らされた人ーー悪人ーーに仏がある。
(昭和三十八年六月)