邪見 (じゃけん)
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季節は冬から春に変わっても、人の世は相変わらず、身も心も寒々となるような事件が続きます。この数年来、全国的な規模で問題になっているものに幼児虐待があります。抵抗する術(すべ)を持たない幼児を折檻(せっかん)し、時として死亡させる事件です。こういう事件を伝えるマスコミ報道に接しますと、私たちは「なんて邪見(邪慳)なことをするのか」と憤慨して、加害者を裁き、詰(なじ)ることとなります。それはそれで当然なことなのでしょう。
しかし、このような場面で登場する仏教語としての邪見は、ただ事件の加害者を一方的に批判するだけの言葉ではありません。事件を傍観し評論して、正義の立場に立って加害者を裁き、詰る私たちをも問う言葉です。
その意味では、邪見とは、私たち人間の自己中心性を問い、その歪(ゆが)み、傾きを糺(ただ)すことばです。相手を非難することばではありません。それは仏陀(ブッダ)の智慧(ちえ)、それを正見(しょうけん)といいますが、そこから照らしだされた、人間の迷いをこそ明らかにするものなのです。
だから、幼児虐待の問題でいえば、因縁所生(いんねんしょしょう)のいのち、つまり、あらゆる縁に因(よ)っていただかれたいのちを私有化することも、切り棄てることもできないことなのです。加害者はもちろんのこと、加害者を責めるものも同一に、因縁所生のいのちに疎(おろそ)かであることが邪見から問われているのではないでしょうか。
尾畑文正 おばた ぶんしょう・同朋大学教授
月刊『同朋』2001年5月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |