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邪見 (じゃけん)

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法輪

えっ!仏教語だったの?

愛_(あい)
悪魔_(あくま)
ありがとう
暗証_(あんしょう)
一大事_(いちだいじ)
一蓮托生_(いちれんたくしょう)
有頂天_(うちょうてん)
縁起_(えんぎ)
往生_(おうじょう)
億劫_(おっくう)
開発_(かいほつ)
我慢_(がまん)
祇園_(ぎおん)
快楽_(けらく)
玄関_(げんかん)
金輪際_(こんりんざい)
三蔵法師_(さんぞうほうし)
三昧_(さんまい)
四苦八苦_(しくはっく)
邪見_(じゃけん)
邪魔_(じゃま)
受持_(じゅじ)
精進_(しょうじん)
世界_(せかい)
世間_(せけん)
殺生_(せっしょう)
刹那_(せつな)
善哉_(ぜんざい)
退屈_(たいくつ)
大衆_(たいしゅう)
大丈夫_(だいじょうぶ)
達者_(たっしゃ)
他力本願_(たりきほんがん)
畜生_(ちくしょう)
超_(ちょう)
道場_(どうじょう)
道楽_(どうらく)
内証_(ないしょ)
ばか
悲願_(ひがん)
不思議_(ふしぎ)
法螺を吹く_(ほらをふく)
微塵_(みじん)
迷惑_(めいわく)
利益_(りやく)
臨終_(りんじゅう)
流行_(るぎょう)
流通_(るづう)
仏教語だったの

 季節は冬から春に変わっても、人の世は相変わらず、身も心も寒々となるような事件が続きます。この数年来、全国的な規模で問題になっているものに幼児虐待があります。抵抗する術(すべ)を持たない幼児を折檻(せっかん)し、時として死亡させる事件です。こういう事件を伝えるマスコミ報道に接しますと、私たちは「なんて邪見(邪慳)なことをするのか」と憤慨して、加害者を裁き、詰(なじ)ることとなります。それはそれで当然なことなのでしょう。

 しかし、このような場面で登場する仏教語としての邪見は、ただ事件の加害者を一方的に批判するだけの言葉ではありません。事件を傍観し評論して、正義の立場に立って加害者を裁き、詰る私たちをも問う言葉です。

 その意味では、邪見とは、私たち人間の自己中心性を問い、その歪(ゆが)み、傾きを糺(ただ)すことばです。相手を非難することばではありません。それは仏陀(ブッダ)の智慧(ちえ)、それを正見(しょうけん)といいますが、そこから照らしだされた、人間の迷いをこそ明らかにするものなのです。

 だから、幼児虐待の問題でいえば、因縁所生(いんねんしょしょう)のいのち、つまり、あらゆる縁に因(よ)っていただかれたいのちを私有化することも、切り棄てることもできないことなのです。加害者はもちろんのこと、加害者を責めるものも同一に、因縁所生のいのちに疎(おろそ)かであることが邪見から問われているのではないでしょうか。


尾畑文正 おばた ぶんしょう・同朋大学教授 月刊『同朋』2001年5月号より


 出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。