世間 (せけん)
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私たちは何かにつけて「世間」という言葉をよく使います。どんな意味で使っているか、少し考えてみましょう。何か困ったことがあっても、きっと誰かが手助けしてくれる。人間、そんなに捨てたもんじゃないよ。そういうことを「渡る世間に鬼は無し」といいます。最近では、全く反対に、薄情な世相を揶揄(やゆ)しているのでしょうか、テレビ番組に「渡る世間は鬼ばかり」というものまであります。 そのほか、「世間体が悪い」「世間に顔向けができん」「世間の物笑いになる」というように、私たちの行動原理にまでなっているような使われ方もあります。
いずれにしろ私たちが用いる世間はわが家、わが村、わが国というような非常に狭い範囲を指しています。そういう狭い世界を「これでいいのか」と問うこともなく、むしろ、その「世間」を絶対化し、同調し、その中に自分自身を埋没させていくこととなります。
しかし、仏教で「世間」という場合は、衆生(しゅじょう)世間<生きもの>と器(き)世間<生きものの生きる環境>を指していますから、私たちが生きる世界全体を課題にする概念です。この世界全体を言い当てようとする本来の「世間」の言葉に立ち返って、私たち自身と世界のありようを考えてみる必要があるのではないでしょうか。
尾畑文正 おばた ぶんしょう・同朋大学教授 月刊『同朋』2001年2月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |