微塵 (みじん)
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「タマネギをみじん切りにします…」とテレビの料理番組で聞くことがあります。「みじん切り」を漢字で書いてみてといわれると、なかなか難しいですね。
この「微塵」とはもともと仏教語で、「目に見える最小のもの。ごく小さいもの。非常に微細な物質」のことだそうです。親鸞聖人は「微塵」をこんなふうに表現しています。「仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり」(『唯信鈔文意』)。
これは「如来というものは、ものすごく小さいもので、世界・宇宙に遍満しているのですよ、だからこそあらゆる人間のこころでもあるのです」という意味でしょう。でも「如来が遍満しているから、私のこころでもあるのです」という表現には、そのままではつながらないものを感じます。親鸞聖人は「すなわち」という接続詞でつないでいるのですけれども、どうして「すなわち」でつながるのでしょうか?
そして思い至ったのです。この疑問の中には「私のこころに如来などあるはずがない」という心が隠されているのだと。その心が逆に「すなわち」という接続詞を意味のあるものにしているのでしょう。つまり、まず初めに、私と如来とは断絶しているものだという思いがあります。その思いのところに、思いを破って如来はお前のこころでもあるのだよという摂取力を発揮するのだと思います。微塵は、ごく小さいことなのかと思っていましたら、実は宇宙に遍満している微塵なのですから、広大な宇宙観の表現でもあるのです。
武田定光 たけだ じょうこう・真宗大谷派因速寺住職 月刊『同朋』2003年9月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |