億劫 (おっくう)
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「億劫」と書いて「おっくう」と読みます。ただしくは「おくこう」でしょう。それが俗語化したようです。
もともとは仏教語で、「百千万億劫のこと。無限に長い時間。永遠」という意味です。それが現代では、「気が進まず面倒なこと。面倒に感じられるさま」に使われています。まったく「おっくう」な話です。現代は「忙しさの時代」です。小学生でも、お互いに遊ぶときにはアポイントメント(予約)をとるそうです。アポなしでは、遊ぶこともできません。
まして大人社会では、予定の入っていない日がないくらい忙しい。日曜日すら予定が入っています。まったく生きること全体がオックウな時代になりました。「洗濯もしなきゃ、銀行へもいかなきゃ、買い物をして、次に郵便局にいって…」と考えるとオックウだなぁと思います。たくさんの仕事を前にして人間はオックウだと感じます。しかし、よく考えてみると人間にできることは、目の前にあるたったひとつのことです。手を動かす、足を運ぶ、耳で聞く、眼で見る。オックウと感じているのは「思い」です。「思い」は同時にいろいろなことを考えます。あれもこれもと考えます。
しかし、実際にしている行為は目の前のたったひとつのこと以外にはないのです。私は「思いは抽象・体は具象」といっています。何が人間をオックウにさせるのかといえば、やはり「オックウという思い」なのです。たったひとつの行為の連続以外に生きるということはありません。この「思い」と「行為」の峻別こそが、生の新鮮さをたもつ秘訣だと思います。
武田定光 たけだ じょうこう・真宗大谷派因速寺住職 月刊『同朋』2002年10月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |