悲願 (ひがん)
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真夏の甲子園では選手たちが白熱した試合を見せてくれます。甲子園に出場することは、選手たちには悲願であり、大きな夢が実現した姿なのでしょう。マスコミも出場校に対して「悲願達成」「悲願成就(じょうじゅ)」と、この悲願の大連発です。そのほか、悲願の言葉は、選挙に当選したい悲願、志望校に入りたい悲願、戦争中には敵国に勝利する悲願等々と、無数に使われています。
それらの悲願は、実に、私たち人間が求めてやまない欲望であり、その達成です。それは人間に所属し、人間の心を表す言葉です。だから、たとえ悲願といっても、その人だけに、あるいはその人たちだけに通用する心です。すべての人に通用する心ではありません。
それに対して、仏教で用いられる悲願という言葉は、元来、「仏・菩薩が衆生の苦しみを救うために誓われた願のことで、特に阿弥陀仏の本願をさす言葉」といわれて、どこまでも私たち人間の苦しみを、自分の苦しみとして同悲・同苦する仏の自他平等の心を表しています。それは仏に所属する言葉です。
そのかぎり、この悲願という言葉は、自分の欲望が満足することを生きがいにして生きている私の言葉ではなく、むしろ、そういう自己中心的な私の生き様を問いただして、自他平等の仏の世界に目覚めさせようとする仏の心を端的に表現している言葉なのです。
尾畑文正 おばた ぶんしょう・同朋大学教授
月刊『同朋』2002年8月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |