達者 (たっしゃ)
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“達者でな”という歌がずいぶん昔にはやった。別れゆく愛馬に対して、健康であってほしいという馬子(まご)の優しい心情を歌ったものであった、と記憶している。このように「達者」は、今では健康を意味する言葉として日常よく使われる。また、芸達者等と言う場合は、その芸の達人を意味する。これも元は仏教語で、真理に到達した覚者を、表す言葉である。学ぶべきことを学び終わり、真理に到達して心も身体も健康な者、から現代の意味に転じたのであろう。
それにしても、人として学ぶべきことを学び尽くしたとは、少し厚かましい言い方のようでもある。現代のような多様な価値観の中で生きる我われには、生涯学び続けても学び尽くした、とは言えないように思われる。仏教では、一体何を学べば全てを学び終わった、と言えるのであろうか。
お釈迦さまは、シャカ族の王子であった。若いシッダールタは感受性が強く、ふとしたことにも考え込む青年であった。父王は、彼が出家などせず立派な王になるよう、心を痛めた。ある日、シッダールタは、遊園に出かけるため、城の東門から外に出た。そこで彼は、老人に逢うのである。皮膚は真っ黒で骨と皮にやせ細り、二つに折れまがった身体に杖を持ち、震えながら歩いては倒れ、また立ち上がるといったふうである。頭は白く歯はまばらに抜け、首の皮は牛の首のようにしわだらけである。馭者(ぎょしゃ)に、「あなたも必ずあのような老人になる」と教えられたシッダールタは、突然、城にひき返しふさぎ込むのであった。同じように、南門から出た時は病人に、西門から出た時は死人に、北門から出た時は、沙門(しゃもん・修行僧)に逢うのである。沙門は、糞雑衣(ふんぞうえ)をまとい無一物ではあっても、人間存在が持つ生老病死(しょうろうびょうし)の苦を超えて、輝くような顔であった。その沙門を見て、人間が解くべき本当の課題を教えられたシッダールタは、出家し、やがて菩提樹(ぼだいじゅ)の下でその課題を解き、真理に到達した覚者となるのである。
平均寿命の飛躍的な延びによって末期医療が問題となっている昨今、人として本当に学ぶべきことは何かを、このお釈迦さまの四門出遊(しもんしゅつゆう)の教えに、あらためて教えられることである。
延塚知道 大谷大学教授・真宗学 大谷大学発行『学苑余話』生活の中の仏教用語より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |