悪魔 (あくま)
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矢のような尻尾を持つ黒い恐ろしい生き物。西洋の絵画に慣れ親しんだ私たちがもつイメージは<サタン>としての“悪魔”ですが、仏典に記された“悪魔”は、<マーラ>の訳語であり「いのちを奪うもの」という意味となります。
「いのちを奪う」とは恐ろしいことですが、そうはいっても、むやみやたらといのちを奪うわけではありません。
「道がさかんであれば魔もまたさかんになる、といわれるように、仏道修行においては、かならず魔の障難がそなわっている」(『西方指南抄口上本』)これは法然上人のお言葉です。つまり、仏道をこころざし、真実に目覚めることを「我がいのち」と選び取った者だけに、「そのいのち」を奪おうとして悪魔は現れてくるのです。「真実なんて、もう、いいよ」「こころざしなんか捨てて、楽しくやろうよ」と。
でも、そこで「こころざし」を奪ってしまえば、悪魔の仕事は終わったわけですから、仕事をなくした悪魔は消えるしかありません。悪魔が消えたということは、「こころざし」も消えているのです。はたして、それでいいのでしょうか。
実は「君の立てた、そのこころざしは本物か」と、「こころざし」の確かさを問うところに、悪魔は、悪魔としての仕事の本領を発揮するのです。だからこそ「こころざし」も自らを確かめ、悪魔の仕事を打ち破ることで、いよいよ「こころざし」そのものを深めていくのです。悪魔がいきいきと活躍する世界、それは、こころざしがいきいきと躍動する世界なのです。
埴山和成 はにやま・かずなり 大谷専修学院指導補 月刊『同朋』2003年3月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |