臨終 (りんじゅう)
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もしあなたが人の死に立ち会う仕事をされている人ならば、ぜひお願いがあります。人が亡くなったことを「ご臨終です」と言わないでほしいのです。
生きている時は死んでいないし、死んでいる時は生きていない。現代医学によって境界はあやふやになってきましたが、どちらにしてもこの「二つの時(有・無)」という基本的考え方は変わりません。しかし『浄土三部経』のどれにも死んだ時とは説かれていません。仏典に教えられつつ私たちの生をふり返ってみると、生の終わりに「臨終の時」という「第三の時」が来ることが教えられてきました。私も「臨終」とは「死んだ時」のことだと思っていましたが、実は、死に臨(のぞ)んだ生、まさしく「生きている時」のことを言うのです。そして臨終こそ真実の言葉が聞ける時だとお釈迦さまは説かれているのです。
しかし私たちの実感は、臨終はどこまでも未来でしかなく、今の事実には決してなりません。このような私たち凡夫の姿をよく知ったお釈迦さまが、凡夫でもただ一度、唯一いやおうなくいのちの事実に出会える時、死ぬ間際の時として「臨終」を説かれたのでしょう。
親鸞聖人は、本願を信じ念仏申す時が「臨終の時」であり、凡夫であっても臨終を待つことはない、と言われました。今がまさしく真実と出会える時になる。本願念仏の歴史はそんな不思議な時をプレゼントしてくれます。「臨終」とは、知らされてみれば生の終わりの時なのでもなく、実はいのちの真実からプレゼントされる「生死(しょうじ)を超えることが課題となる(有・無を離れる)唯一の時」なのです。
埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補 月刊『同朋』2001年3月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |