操作

臨終 (りんじゅう)

提供: Book

2007年9月6日 (木) 15:16時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
法輪

えっ!仏教語だったの?

愛_(あい)
悪魔_(あくま)
ありがとう
暗証_(あんしょう)
一大事_(いちだいじ)
一蓮托生_(いちれんたくしょう)
有頂天_(うちょうてん)
縁起_(えんぎ)
往生_(おうじょう)
億劫_(おっくう)
開発_(かいほつ)
我慢_(がまん)
祇園_(ぎおん)
快楽_(けらく)
玄関_(げんかん)
金輪際_(こんりんざい)
三蔵法師_(さんぞうほうし)
三昧_(さんまい)
四苦八苦_(しくはっく)
邪見_(じゃけん)
邪魔_(じゃま)
受持_(じゅじ)
精進_(しょうじん)
世界_(せかい)
世間_(せけん)
殺生_(せっしょう)
刹那_(せつな)
善哉_(ぜんざい)
退屈_(たいくつ)
大衆_(たいしゅう)
大丈夫_(だいじょうぶ)
達者_(たっしゃ)
他力本願_(たりきほんがん)
畜生_(ちくしょう)
超_(ちょう)
道場_(どうじょう)
道楽_(どうらく)
内証_(ないしょ)
ばか
悲願_(ひがん)
不思議_(ふしぎ)
法螺を吹く_(ほらをふく)
微塵_(みじん)
迷惑_(めいわく)
利益_(りやく)
臨終_(りんじゅう)
流行_(るぎょう)
流通_(るづう)
仏教語だったの

 もしあなたが人の死に立ち会う仕事をされている人ならば、ぜひお願いがあります。人が亡くなったことを「ご臨終です」と言わないでほしいのです。

 生きている時は死んでいないし、死んでいる時は生きていない。現代医学によって境界はあやふやになってきましたが、どちらにしてもこの「二つの時(有・無)」という基本的考え方は変わりません。しかし『浄土三部経』のどれにも死んだ時とは説かれていません。仏典に教えられつつ私たちの生をふり返ってみると、生の終わりに「臨終の時」という「第三の時」が来ることが教えられてきました。私も「臨終」とは「死んだ時」のことだと思っていましたが、実は、死に臨(のぞ)んだ生、まさしく「生きている時」のことを言うのです。そして臨終こそ真実の言葉が聞ける時だとお釈迦さまは説かれているのです。

 しかし私たちの実感は、臨終はどこまでも未来でしかなく、今の事実には決してなりません。このような私たち凡夫の姿をよく知ったお釈迦さまが、凡夫でもただ一度、唯一いやおうなくいのちの事実に出会える時、死ぬ間際の時として「臨終」を説かれたのでしょう。

 親鸞聖人は、本願を信じ念仏申す時が「臨終の時」であり、凡夫であっても臨終を待つことはない、と言われました。今がまさしく真実と出会える時になる。本願念仏の歴史はそんな不思議な時をプレゼントしてくれます。「臨終」とは、知らされてみれば生の終わりの時なのでもなく、実はいのちの真実からプレゼントされる「生死(しょうじ)を超えることが課題となる(有・無を離れる)唯一の時」なのです。


埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補 月刊『同朋』2001年3月号より


 出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。