一蓮托生 (いちれんたくしょう)
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「一蓮托生」とは、死後、浄土に往生して同一の蓮華に身を託すこと、と辞書にあります。
最近では「死んでまでも一緒にいたくない」と、お墓を別にする人も増えています。そういう人にとって「一蓮托生」はありがたくないでしょうし、反対に、死んでも一緒にいたいと思う人にとっては「願ってもない」言葉となるでしょう。
でも、どちらも間違っているのです。浄土は、私たちの願望を膨らませて実現した世界ではないからです。
私たちの直接的な願望を親鸞聖人は「愛憎」と表現されています。その愛憎のままで「一蓮托生」すれば、ヤケクソで運命を共にする意味にしかなりません。
運命という言葉を使うならば、私の都合に先立ってすでに運命を共にしているのが私たちの「いのち」の事実です。しかし私たちはその事実に暗いため、愛したり憎んだりしながら身勝手な都合のいい生き方に「いのちの満足」を求めているのです。
愛憎を膨らませていく私たちの未来には、本当にこの「いのち」を生ききったという満足は生まれません。むしろ、私たちの都合、愛憎が、いのちに背く罪として照らされてこそ、いのちは本来のみずみずしさを取り戻すのです。
「一蓮托生」は、愛憎をくり返すしかない私たちの生が、愛憎を超えて未来に一つの華となって開くことが托されている生であることを、今ここに指し示す教えの言葉なのです。
埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補 月刊『同朋』2002年6月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |