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内証 (ないしょ)

提供: Book

2007年8月5日 (日) 19:56時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 (1 版)

法輪

えっ!仏教語だったの?

愛_(あい)
悪魔_(あくま)
ありがとう
暗証_(あんしょう)
一大事_(いちだいじ)
一蓮托生_(いちれんたくしょう)
有頂天_(うちょうてん)
縁起_(えんぎ)
往生_(おうじょう)
億劫_(おっくう)
開発_(かいほつ)
我慢_(がまん)
祇園_(ぎおん)
快楽_(けらく)
玄関_(げんかん)
金輪際_(こんりんざい)
三蔵法師_(さんぞうほうし)
三昧_(さんまい)
四苦八苦_(しくはっく)
邪見_(じゃけん)
邪魔_(じゃま)
受持_(じゅじ)
精進_(しょうじん)
世界_(せかい)
世間_(せけん)
殺生_(せっしょう)
刹那_(せつな)
善哉_(ぜんざい)
退屈_(たいくつ)
大衆_(たいしゅう)
大丈夫_(だいじょうぶ)
達者_(たっしゃ)
他力本願_(たりきほんがん)
畜生_(ちくしょう)
超_(ちょう)
道場_(どうじょう)
道楽_(どうらく)
内証_(ないしょ)
ばか
悲願_(ひがん)
不思議_(ふしぎ)
法螺を吹く_(ほらをふく)
微塵_(みじん)
迷惑_(めいわく)
利益_(りやく)
臨終_(りんじゅう)
流行_(るぎょう)
流通_(るづう)
仏教語だったの

 弟子 「師匠、このように修行を続ければ、私でも覚れるのでしょうか」  「ナイショじゃ」 弟子 「ナイショだなんて隠さないで、ぜひ教えてください」  「それは内証なのじゃ」 弟子「内証って…」

 修行をしている自分に不安をもつお弟子さんは、自分の修行の確かさを先生に証明してもらおうとしているようです。

 数学などの公式は、誰が計算しても間違いがないことによって証明されます。つまり客観性が証明の大事な点です。

 ところで、私たちは「生きることの本当の確かさ」についても、つい客観性を求めてしまいます。しかし、生きることに関しては、「客観性」と「確かさ」は何の関係もありません。ほとんどの人が「そうだ」と言っても嘘は嘘だし、本当のことは、かえって誰も語らないということがあります。

 「生きることの本当の確かさ」は、私が「確かだ、本当だ」と頷(うなず)くことです。しかし「本当だ」と頷いている「私」を立脚地にする限り、「私の中」をぐるぐる廻るだけでしょう。それでも私が「確かだ、本当だ」と頷くことに存在を賭けて向き合う、そのことしか証しへの道はありません。  実は、そのような「私の求め」を打ち破って、「私こそ最も不確かな存在」であることを告げ知らせてくるものが、本当の確かさです。それは客観的な証明をまったく必要としないだけでなく、むしろ客観的な証明を拒否する「内証」でこそあるのです。


埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補 月刊『同朋』2002年9月号より


 出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。