畜生 (ちくしょう)
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仕事や人間関係がうまくいかない時、他人(ひと)からとがめられた時、腹立ちのあまり、思わず、誰に言うわけでもなく、「畜生」と愚痴ることがあります。また、ある時には自分に敵対する具体的な相手をののしり、さげすんで「こん畜生!」と吐き捨てることもあります。
どちらにおいても共通していることは、畜生と叫んでいる時は、自分はその畜生の枠(わく)の外にあるということです。
畜生とは他人(ひと)のことであって、決して自分ではないのです。むしろ、他人(ひと)を傷つけたことには無頓着で、傷つけられたことに執着して、畜生と罵倒(差別)することで自分の存在を癒(いや)しているようでもあります。
その意味では、どうも私たちが日常生活で用いている畜生は、仏教語としての畜生が、人間であることを見失った自分を自覚する言葉であるのとは違って、相手を誹謗中傷する差別語として機能しているようであります。
親鸞聖人は『教行信証』に『涅槃経』を引用して、自分を見失っている存在を「無慙愧(むざんき)」は名づけて「人(にん)」とせず、名づけて「畜生」とす、と言われています。それはあらゆるいのち生きるものを踏みつけ、傷つけ、殺して恥じない私たちに対して、それは人間ではないと、人間を見失った私と私の世界を問う言葉として畜生の語をいただかれていることです。
つまり、畜生の語は他人(ひと)を差別したり、また、それを実体化して実際の犬猫などの生きものを見くだして言う言葉ではないのです。
尾畑文正 おばた ぶんしょう・同朋大学教授 月刊『同朋』2001年8月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |