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受持 (じゅじ)

提供: Book

2007年8月5日 (日) 19:56時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 (1 版)

法輪

えっ!仏教語だったの?

愛_(あい)
悪魔_(あくま)
ありがとう
暗証_(あんしょう)
一大事_(いちだいじ)
一蓮托生_(いちれんたくしょう)
有頂天_(うちょうてん)
縁起_(えんぎ)
往生_(おうじょう)
億劫_(おっくう)
開発_(かいほつ)
我慢_(がまん)
祇園_(ぎおん)
快楽_(けらく)
玄関_(げんかん)
金輪際_(こんりんざい)
三蔵法師_(さんぞうほうし)
三昧_(さんまい)
四苦八苦_(しくはっく)
邪見_(じゃけん)
邪魔_(じゃま)
受持_(じゅじ)
精進_(しょうじん)
世界_(せかい)
世間_(せけん)
殺生_(せっしょう)
刹那_(せつな)
善哉_(ぜんざい)
退屈_(たいくつ)
大衆_(たいしゅう)
大丈夫_(だいじょうぶ)
達者_(たっしゃ)
他力本願_(たりきほんがん)
畜生_(ちくしょう)
超_(ちょう)
道場_(どうじょう)
道楽_(どうらく)
内証_(ないしょ)
ばか
悲願_(ひがん)
不思議_(ふしぎ)
法螺を吹く_(ほらをふく)
微塵_(みじん)
迷惑_(めいわく)
利益_(りやく)
臨終_(りんじゅう)
流行_(るぎょう)
流通_(るづう)
仏教語だったの

 卒園式、幼児の名前を読み上げる担任の先生の声がふるえ、目には抑えきれない涙が浮かぶ。短い期間ではあったが、ともに歩み、いっしょに遊び、感動を共有してきた子どもがいま、すっかりたくましくなり、ちょっぴり生意気にさえなった成長ぶりに、あらためて感激するのである。

 幼稚園の先生が受け持った幼児たちに対する責任感は大変強い。子どもの個性をよく見つめ、ふさわしい発達を願うのである。担任としての義務感からでなく、一人ひとりの行動に日々感動しながら、子どもと向き合って応対している。そして担任クラスの子どもだけでなく、幼稚園にいるすべての子どもにも同じように向き合っていくのである。

 幼稚園はいうまでもなく保育や教育に明確な目標をもつ学校である。先生は保育指導に携わり、いつも子どもと時空を同じくして、遊びという活動を通じて、目標を達成しようとしているのである。先生は一方的な指導者でもなければ、子どもの遊びを打ち壊す監視員でもない。幼児教育の場はまさに子どもと先生とがともに生き、ともに育つところなのである。

 「受持(じゅじ)」とは、仏教で、仏の教えを受けて心に念じて持ち続けることであり、また戒法(かいほう)を受け保つこととも理解されている。常に仏の教えに導かれて自らの行動を律するように心がけることと考えられよう。

 担任教諭はときに受け持ちの先生と呼ばれるが、実のところ、何を受け持つのであろうか。確かに保育を担い、子どもたちの生活を律し、教育指導を行うのであるが、その前に受持すべきことがあると思う。

 保育や教育のどんな場面でも、仏教が教えるように、人間を真摯に見つめ、いのちの尊さを第一に考えることである。子どものいのちが育まれ先生もまた生かされるよう、人間への温かなまなざしを受持してなお行いをいつも実践の場で確かめ直していきたいものである。

 3歳児がいっそう多くなった新学期、今日も幼稚園はしばしの喧騒(けんそう)につつまれ、歓声と悲鳴と泣き声の渦の中に、子どもたちと一つになった受け持ちの先生の姿がある。


藤田昭彦 大谷大学教授・心理学/大谷幼稚園長 大谷大学発行『学苑余話』生活の中の仏教用語より


 出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。