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祇園 (ぎおん)

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2007年8月5日 (日) 19:56時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版 (1 版)

法輪

えっ!仏教語だったの?

愛_(あい)
悪魔_(あくま)
ありがとう
暗証_(あんしょう)
一大事_(いちだいじ)
一蓮托生_(いちれんたくしょう)
有頂天_(うちょうてん)
縁起_(えんぎ)
往生_(おうじょう)
億劫_(おっくう)
開発_(かいほつ)
我慢_(がまん)
祇園_(ぎおん)
快楽_(けらく)
玄関_(げんかん)
金輪際_(こんりんざい)
三蔵法師_(さんぞうほうし)
三昧_(さんまい)
四苦八苦_(しくはっく)
邪見_(じゃけん)
邪魔_(じゃま)
受持_(じゅじ)
精進_(しょうじん)
世界_(せかい)
世間_(せけん)
殺生_(せっしょう)
刹那_(せつな)
善哉_(ぜんざい)
退屈_(たいくつ)
大衆_(たいしゅう)
大丈夫_(だいじょうぶ)
達者_(たっしゃ)
他力本願_(たりきほんがん)
畜生_(ちくしょう)
超_(ちょう)
道場_(どうじょう)
道楽_(どうらく)
内証_(ないしょ)
ばか
悲願_(ひがん)
不思議_(ふしぎ)
法螺を吹く_(ほらをふく)
微塵_(みじん)
迷惑_(めいわく)
利益_(りやく)
臨終_(りんじゅう)
流行_(るぎょう)
流通_(るづう)
仏教語だったの

 花のかんざしだらりの帯に、ポックリをはいた舞妓さんが歩くベンガラ格子の街なみは、京都の祇園ならではの風情である。田舎から京都に出てきた私には、舞妓さんは憧れの的であったが、今だに祇園街には縁がない。祇園といえば、今では多くの人が、京都の祇園かあの絢爛(けんらん)たる八坂神社の祇園祭を想うのではなかろうか。

 しかし、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と『平家物語』の冒頭に出てくるように、この祇園精舎は、インドのお釈迦様が覚りを開いた後、最も多くとどまって説法された場所の名前である。

 伝承によれば、舎衛城(しゃえじょう)の長者・スダッタ(給孤独・ぎっこどく)が、帰依(きえ)したお釈迦様に僧院を寄進しようと、その土地を捜した。そしてジェータ(祇陀・ぎだ)太子の所有する土地が理想の場所であると定めた。ところが、太子はその土地を長者に譲ろうとしないばかりか、たとえ金貨を大地に敷しきつめてもここを譲らぬ、というのである。それを聞いたスダッタが、この土地に実際に金貨を敷き始めると、太子は、彼のお釈迦様に対する帰依の深さに感銘を受け、その土地の喜捨(きしゃ)を申し出たのである。そればかりか、僧院の建築に必要な材木(祇樹・ぎじゅ)をも寄進し、ここに、太子と長者が共同でお釈迦様に捧げた精舎が、建立されたのである。

 インドでは雨季、教化に歩くことができないため、お釈迦様は一箇所にとどまって説法された。それを安居(あんご)というが、お釈迦様は、ここで二十五回もの安居を行ったといわれている。多くの人々を救うための法が説かれたこの精舎は祇陀太子と給孤独長者の徳を偲び、二人の名前にちなんで祇樹給孤独園精舎(祇園精舎)と、呼ばれたのである。

 京都の八坂神社は、明治四年の神仏分離令までは、この祇園精舎の名を取って祇園感神院と呼ばれる比叡山延暦寺の別院であった。それが八坂神社と改名されたが、その祭礼は祇園祭と呼ばれてその名を残し、その門前町が祇園として残ったのである。今では、その祭りや街の名前だけが、京都を代表するものとして残ることとなったのである。

延塚知道 大谷大学教授・真宗学 大谷大学発行『学苑余話』生活の中の仏教用語より


 出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。