「超 (ちょう)」の版間の差分
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「チョーおいしいでー」。私の隣で、小学校4年生のゆりかちゃんがコンビニのグラタンを食べています。「チョー腹が立つ」「チョーおもしろい」…これほど「超」がチョー使われる時代もなかったのではないでしょうか。価値観が多様化して、ちょっとやそっとの違いでは気持ちを表現できなくなってきたのでしょうか。ゆりかちゃんの言葉の意味を尋ねると、「ものすごく」「最高に」という響きを感じます。 | 「チョーおいしいでー」。私の隣で、小学校4年生のゆりかちゃんがコンビニのグラタンを食べています。「チョー腹が立つ」「チョーおもしろい」…これほど「超」がチョー使われる時代もなかったのではないでしょうか。価値観が多様化して、ちょっとやそっとの違いでは気持ちを表現できなくなってきたのでしょうか。ゆりかちゃんの言葉の意味を尋ねると、「ものすごく」「最高に」という響きを感じます。 |
2007年9月6日 (木) 15:13時点における最新版
「チョーおいしいでー」。私の隣で、小学校4年生のゆりかちゃんがコンビニのグラタンを食べています。「チョー腹が立つ」「チョーおもしろい」…これほど「超」がチョー使われる時代もなかったのではないでしょうか。価値観が多様化して、ちょっとやそっとの違いでは気持ちを表現できなくなってきたのでしょうか。ゆりかちゃんの言葉の意味を尋ねると、「ものすごく」「最高に」という響きを感じます。
ところで「超」は「完全なさとり」を意味する仏教語です。相対有限という比較の世界を超え出て、絶対無限の世界を感得することをいいます。ゆりかちゃんも比較を超えたおいしさを、そのグラタンに感じたのでしょうか。
ゆりかちゃんが言いました。「おじさん、食べたい?」
絶対無限の世界といっても、独りよがりの世界ではありません。それは、隣のおじさんにとっても美味しいはず。「チョー」には、誰にでも通じるという意味があることが、ゆりかちゃんからも知らされます。「完全なさとり」である「超」も、そのように「一切衆生(いっさいしゅじょう)に超えて通じる」という意味があります。
親鸞聖人はこの相対差別の苦しみの中、どこに一切の衆生がひとつになれる世界があるかを尋ねました。そして「名声超十方」、一切衆生に超えて通じる「南無阿弥陀仏の名号(みょうごう)」こそ「完全なさとり」の用(はたら)きであり、その用きによって相対有限の比較の世界で苦しむ一切の衆生を救おうという、弥陀の本願の歴史に出会われたのです。
親鸞聖人が現代におられたなら、「チョーサイテイ(最低)なる我らなり」と語られた?かもしれませんね。
埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補 月刊『同朋』2001年6月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |