「退屈 (たいくつ)」の版間の差分
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学校の教室から声が漏れてきます。「ああ、退屈や。全然おもしろくない」「おれも退屈や、何か暇つぶしないかな」 | 学校の教室から声が漏れてきます。「ああ、退屈や。全然おもしろくない」「おれも退屈や、何か暇つぶしないかな」 |
2007年9月6日 (木) 15:11時点における最新版
学校の教室から声が漏れてきます。「ああ、退屈や。全然おもしろくない」「おれも退屈や、何か暇つぶしないかな」
現代の「退屈」は「ヒマで飽きあきすること」ですが、もとは「仏道修行の厳しさに屈し、退いてしまうこと」を意味します。「仏道に生きようと決心をした者が志半ばで挫折した。そのまま志を見失ってしまえば死んだも同然、あとはヒマで飽きあきした人生があるのみ」となったのでしょうか。この意味は日本で独自に展開したものだそうです。展開する意味の中に、幾多の挫折した先人のうめきが聞こえてくるようです。
ところで現代は、「ヒマで飽きあきすること」すら許さないかのごとく、さまざまな情報が絶えず耳に流れ込んできます。疑問なしにその情報を追っていけば、次々と「したいこと」が反射的に湧き起こってきて刺激的な人生を歩むことができるのだと。もしかしたら、現代の日本では「退屈」の意味が「刺激的な情報が遮断された時」に展開してしまってはいないでしょうか。
退屈の心は「自ら起こす」ものだと記されています。「自分のしなければならないことが見失われてしまった」と自らの起こす黄色信号が「退屈」なのです。「退屈」は、ヒマつぶしで解消させてはいけません。「退屈」そのものが「見失っている志を見つけなさい」と、自らの歩む方向を指し示しているのです。まず「刺激的な情報」から、大切な「退屈」を守らなくてはいけないのが現代のようです。
埴山和成 はにやま かずなり・大谷専修学院指導補 月刊『同朋』2001年12月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |