「開発 (かいほつ)」の版間の差分
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仏教で用いられる開発(かいほつ)は、仏となる性質、つまり、自らの仏性を開きおこし、まことの道理をさとることを意味する言葉です。それが現在では開発(かいはつ)と呼ばれて一般化しています。そういう使われ方は、かなり古い時代から、たとえば「新田開発」などのように使われています。人の手が入っていない原野などの未開地を新しく開墾する際に使われたのでしょう。 | 仏教で用いられる開発(かいほつ)は、仏となる性質、つまり、自らの仏性を開きおこし、まことの道理をさとることを意味する言葉です。それが現在では開発(かいはつ)と呼ばれて一般化しています。そういう使われ方は、かなり古い時代から、たとえば「新田開発」などのように使われています。人の手が入っていない原野などの未開地を新しく開墾する際に使われたのでしょう。 |
2007年9月6日 (木) 15:06時点における最新版
仏教で用いられる開発(かいほつ)は、仏となる性質、つまり、自らの仏性を開きおこし、まことの道理をさとることを意味する言葉です。それが現在では開発(かいはつ)と呼ばれて一般化しています。そういう使われ方は、かなり古い時代から、たとえば「新田開発」などのように使われています。人の手が入っていない原野などの未開地を新しく開墾する際に使われたのでしょう。
明治以降は、それがより大々的に「北海道」開発、「満蒙」開発、地域開発などという極めて政治的な、時として侵略的な国家プロジェクトとして開発(かいはつ)の言葉は一世を風靡しました。戦後の高度経済成長期においても、私たちの現世的な幸福の代名詞として使用されてきました。
しかし、仏教でいう開発(かいほつ)は、そういう開発(かいはつ)とは全く違って、たとえば、日本の場合でいえば、アジアの自然と労働力を踏み台にし、人間としての豊かな感性まで見捨てて生きる、ある意味での開発(かいはつ)至上主義者として突っ走る私たちを根本から問う言葉です。
いまアジアの仏教者の中には、仏教が明らかにする万人共生の大地に目覚めて、社会のあらゆる問題(貧困・環境・エイズ問題等)に関わりをもち物心両面の開発(かいほつ)に取り組む開発(かいほつ)僧、尼僧が活躍しています。
尾畑文正 おばた ぶんしょう・同朋大学教授
月刊『同朋』2003年10月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |