「不思議 (ふしぎ)」の版間の差分
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人間の心で思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことを、「不思議」という。“世にも不思議なことだ”などといって、不思議な事実やはたらきに、人は強い関心と興味をもつ。 | 人間の心で思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことを、「不思議」という。“世にも不思議なことだ”などといって、不思議な事実やはたらきに、人は強い関心と興味をもつ。 |
2007年9月6日 (木) 15:14時点における最新版
人間の心で思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことを、「不思議」という。“世にも不思議なことだ”などといって、不思議な事実やはたらきに、人は強い関心と興味をもつ。
宗教の本質も、その不思議性にあると考えて、人は、しばしば宗教に、あるいは宗教者に、人知(じんち)をこえた不思議な能力やはたらきを期待し、その力やはたらきによって、現実の問題を解決しようとするときがある。
しかし仏教は、基本的に自覚の宗教である。それは、仏の智慧(ちえ)に照らして自己を凝視し、自らの生存在に目覚めたつ宗教である。生死苦悩の生を転じて、真実の生に立たしめよという、その本願のはたらきを「不思議」というのである。
親鸞は、中国の浄土の祖師・曇鸞(どんらん)の『浄土論註(じょうどろんちゅう)』の教えによって、「いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議ということは 弥陀の弘誓(ぐぜい)になづけたり」と詠(うた)っている。奇蹟や奇怪の不思議ではなく、仏法が不思議である、と。阿弥陀仏が、すべての衆生(しゅじょう)を仏の国にあらしめたいと願い、もし生まれなければ仏は正覚(しょうがく)を取らない、と誓いつづける本願のほかに、真の不思議はない、というのである。
さらに親鸞は、仏の本願との出遇(あ)いに開かれるものを、インドの大乗の論師(ろんじ)・世親(せしん)の教言に導かれて、次のように詠っている。「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩(ぼんのう)の濁水(じょくすい)へだてなし」 “仏の国に生まれよ、もし生まれなければ、仏は仏とはなるまい”と誓い、招喚(しょうかん)する仏の本願に、ひとたび出遇うならば、いかなる人も、空しく過ぎる生の惨めさに打ち勝って、仏の功徳を、この身に賜わって生きるものとなる、というのである。空過(くうか)する人生を転じて、仏の功徳を生きる生の誕生、このような生の転換(てんかん)、転成(てんじょう)のほかに、不思議、不可思議とよぶ事実はあるまい。
小野蓮明 大谷大学教授・真宗学 大谷大学発行『学苑余話』生活の中の仏教用語より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |