「道場 (どうじょう)」の版間の差分
提供: Book
細 |
|||
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
− | {{Butu-yougo}} | + | {{Butu-yougo}}[[Category:東本願寺 同朋誌]] |
往生は「あきらめてじっとしていること」。他力本願は「他人の力をあてにすること」など、意味が全く変質して伝わっています。「がらんどう」は「中身のない空虚なこと」という意味ですが、寺院を意味する「伽藍堂」が語源だとすれば、私たち仏教徒にとっては、耳の痛い言葉でもあります。 | 往生は「あきらめてじっとしていること」。他力本願は「他人の力をあてにすること」など、意味が全く変質して伝わっています。「がらんどう」は「中身のない空虚なこと」という意味ですが、寺院を意味する「伽藍堂」が語源だとすれば、私たち仏教徒にとっては、耳の痛い言葉でもあります。 |
2007年9月6日 (木) 15:13時点における最新版
往生は「あきらめてじっとしていること」。他力本願は「他人の力をあてにすること」など、意味が全く変質して伝わっています。「がらんどう」は「中身のない空虚なこと」という意味ですが、寺院を意味する「伽藍堂」が語源だとすれば、私たち仏教徒にとっては、耳の痛い言葉でもあります。
ところで、17世紀初頭の※日葡辞書で「道場」を調べてみると「一向宗の寺」「後生の道」という意味が出てきます。道場は、本来お釈迦様のさとりの場を指す言葉ですが、それが特に念仏修行の場を指す言葉として日本で芽吹き、現代にも通用していることは奇跡的なことです。また剣道や柔道の道場は、そこから派生したものです。
しかし道場にも危機がありました。
そもそも道場は、お念仏をよろこぶ人たちが集まって信心を語り合った場がその始まりです。後に僧侶が入り、祖先崇拝の祭祀をつかさどる仕事を受け持つようになることで、寺の威儀を求めて「○○寺」という寺号を取得していきます。そうなると道場は、寺にしない所、寺になれない所、寺よりランクが下がる所の名となりました。そして、お釈迦様のさとりの場というすばらしい名が、人々から軽んじられる意味に変質していったのです。
1981(昭和56)年、真宗大谷派宗憲が改正され、東本願寺は「根本道場」を名のりました。本来の意味の回復です。今こそ「お釈迦様のさとりの場、念仏修行の場」にふさわしい本来の道場を、名実ともに回復していきたいものです。「道場」の意味を「がらんどう」にしないために。
※1603年に刊行された日本語・ポルトガル語の辞書
埴山和成 はにやま・かずなり 大谷専修学院指導補 月刊『同朋』2003年7月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |