「世界 (せかい)」の版間の差分
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「世界」という言葉は、ワールドの翻訳語として受け取られている場合が多いようです。一般用語として使われていますから、これが仏教語だったとは気づきませんね。古代インドでは、想像上の須弥山という巨大な山を中心とした宇宙観で全世界を考えていたようです。 | 「世界」という言葉は、ワールドの翻訳語として受け取られている場合が多いようです。一般用語として使われていますから、これが仏教語だったとは気づきませんね。古代インドでは、想像上の須弥山という巨大な山を中心とした宇宙観で全世界を考えていたようです。 |
2007年9月6日 (木) 15:09時点における最新版
「世界」という言葉は、ワールドの翻訳語として受け取られている場合が多いようです。一般用語として使われていますから、これが仏教語だったとは気づきませんね。古代インドでは、想像上の須弥山という巨大な山を中心とした宇宙観で全世界を考えていたようです。
しかし仏教では、「ひとりの人間には、ひとつの世界がある」と教えます。ひとつの大きな入れ物のなかに、地球や世界があるという考え方は世間的です。宗教的には、ひとりにひとつの世界があるというのです。つまり、自我というものを国王として、見渡す限りを自分の領土(世界)として固執しようとするのです。自分に関係の深いものを近くに置き、関係の浅いものを遠くに置くという「自我の遠近法」をもって暮らしています。ひとりの人がここにいれば、そこにはひとつの固有の世界があり、別の人がいれば、また別の世界を持って生きているのです。百人いれば、百の世界が存在しているわけです。
ですから、ひとりの人間の死は、ひとつの世界の消滅でもあるのです。私たちはたったひとつの世界に住んでいるのだと思い込んでいるだけです。実存的に見れば世界は重層的に重なっているのです。その固有の世界をどのように創造してゆくのかということが、大切な課題となってきます。法蔵菩薩がさまざまな世界をご覧になって、独自の本願の世界を創造されたように、私たちひとりひとりも永遠固有の世界を創りあげてゆかなければなりません。創造とは大それたことではありません。この一回限りの<私>の生を「生きる」とういうことなのです。
武田定光 たけだ じょうこう・真宗大谷派因速寺住職
月刊『同朋』2003年5月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |