大衆 (たいしゅう)
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近所に「大衆酒場」という暖簾(のれん)の飲み屋さんがあります。以前は流通していた「大衆浴場」「大衆芸能」「大衆文学」など、今ではあまり目にしなくなりました。この言葉はもともと仏教語だったようです。
三帰依文(さんきえもん)には「僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍(むげ)ならん」と記されています。まあ正確には「だいしゅう」と発音するのでしょう。仏教用語での「大衆」は仏法によって調和のとれた人々の集まりという意味です。
ある先生が「私は一切衆生(いっさいしゅじょう)の中のひとりだが、同時に、一切衆生を代表するひとりでもある」と言われていました。大衆の中の一人だということになると、「その他おおぜいの中のひとり」という意味になり、なんだか元気が出てきません。「自分なんかいなくても世の中にはまったく関係ないぜ!」という感情がわいてきます。
しかし、大衆を代表するひとりだということになると、ちょっと違います。ご飯を食べるのも大衆を代表して食べているのかもしれない。腹を立てるのも、大衆を代表して腹を立てているのかもしれない。自分は大衆を代表して生きているのかもしれません。こうなってくると、生きることに前向きになってきます。このちっぽけな自分に、まったく愚かしい自分に衆生を代表する意味が与えられる。代表する資格なきものに、代表する意味が与えられる。この醍醐味(だいごみ)が「大衆」という言葉の響きにはあるように思います。
武田定光 たけだ じょうこう・真宗大谷派因速寺住職 月刊『同朋』2001年10月号より
出典と掲載許可表示(東本願寺出版部発行の月刊『同朋』)から転載しました。 |