六十六 甘受の法悦 「浅原 才市」
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うきことに ををたひとなら わかるぞな
うきことに あわざるひとなら わかるぞな
ためいきほど つらいものはない
こころのやりばのない ためいき みだに とられて
なむあみだぶつ なむあみだぶつと もをす ばかりよ
(浅原 才市)
憂い
信仰は必ずしも苦しい生活をせねばならぬというものではない。世の中で、いわゆる幸せに暮らしている人も当然、信仰の人であり得る。
とは申せ、生活の上のいろいろな苦しみ、悩みは、信仰への入口であるかもしれない。そして信仰にふみこんで、ますますその憂きことは、意味を深めてくる。これはどの宗教でも同じであろう。それかといって、われわれは苦しみを欲しくはない。また、それほどでもないことを、悩みだと思うのもおかしい。避けることの出来ない憂いは、甘受せなばならない。やり場のないためいき。孤独であるからやり場がない。八方ふさがりであるから、やり場がない。ため息が出る。
悦び
始末の出来ぬため息をひっかついで、法蔵菩薩のため息である。私のため息がそのまま法蔵菩薩のため息である。衆生の苦悩は、わが苦悩。ため息を肩代わりしてもらって、楽になるものではない。ため息の中に、私と弥陀と立って、お念仏を申す。辛い。仏つねにこれを知り給う。
(昭和四十一年三月)