操作

六十六 甘受の法悦 「浅原 才市」

提供: Book

Dharma wheel

法悦百景 深川倫雄和上

六十一 愛語 「道元禅師」
六十二 聞き場 「浅原 才市」
六十三 煩悩の過去 「九条 武子」
六十四 御報謝 「句仏上人」
六十五 無常の愛 「外村 繁」
六十六 甘受の法悦 「浅原 才市」
六十七 タノム 「宇右エ門」
六十八 汝を捨てず 「九条 武子」
六十九 おらあ とろいだで 「足利 源左」
七十 非常識 「臼杵 祖山」
七十一 罪の沙汰無益 「法然上人」
七十二 他力の信心 「憶念寺 良雄」
七十三 割れた尺八 「報専坊 慧雲」
七十四 うその皮 「浅原 才市」
七十五 心の豊満 「九条 武子」
七十六 中ぐらい 「小林 一茶」
七十七 亡き子は知識 「高楠 順次郎」
七十八 愚痴の妙薬 「浅原 才市」
七十九 恕しこそ救い 「聖徳太子」
八十 鑑真和上 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

うきことに ををたひとなら わかるぞな
うきことに あわざるひとなら わかるぞな
ためいきほど つらいものはない
こころのやりばのない ためいき みだに とられて
なむあみだぶつ なむあみだぶつと もをす ばかりよ
          (浅原 才市)

憂い

 信仰は必ずしも苦しい生活をせねばならぬというものではない。世の中で、いわゆる幸せに暮らしている人も当然、信仰の人であり得る。

 とは申せ、生活の上のいろいろな苦しみ、悩みは、信仰への入口であるかもしれない。そして信仰にふみこんで、ますますその憂きことは、意味を深めてくる。これはどの宗教でも同じであろう。それかといって、われわれは苦しみを欲しくはない。また、それほどでもないことを、悩みだと思うのもおかしい。避けることの出来ない憂いは、甘受せなばならない。やり場のないためいき。孤独であるからやり場がない。八方ふさがりであるから、やり場がない。ため息が出る。

悦び

 始末の出来ぬため息をひっかついで、法蔵菩薩のため息である。私のため息がそのまま法蔵菩薩のため息である。衆生の苦悩は、わが苦悩。ため息を肩代わりしてもらって、楽になるものではない。ため息の中に、私と弥陀と立って、お念仏を申す。辛い。仏つねにこれを知り給う。

(昭和四十一年三月)