七十七 亡き子は知識 「高楠 順次郎」
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愛児を慕うのは 人情である また同時に 獣情である
ただ 本能の命令によって 動いたまでである
(高楠 順次郎)
生
高楠順次郎先生は、高名な仏教学者でありました。明治四十一年二月、四才になる男児を亡くしました。この大学者も一週間の看病をしながら思う。
病児の眉をしかめ、のどを鳴らすのは、まるで大将軍の号令のように感ぜられる。待ってくれない。一刻も待たせまいとする。百ケ日が過ぎ、墓に参るのが楽しい。同じ年頃の子供を見ても、わが子の残したおもちゃ、洋服を見ても思い出す。
愛着はなかなかこの手では切れない。早く忘れる為に、記念の品を捨てても、忘れまいとして、写真を残しても、それが日が経つにつれ、次第に忘れてゆく。たまに思い出して泣くのがかえって楽しみになる。子を慕うも、忘れるも、所詮犬や猫の親とかわらない。
生きている子を忘れる人もある。現代。亡き子を忘れた親は少ない。親を忘れた子はもっと多い。
枯
子供は可愛いい。思わず抱きあげ笑顔をたのしむのが親である。親、わたしは子供が可愛くなくても、育てるだろうか。心もとない。
子は死に、子は忘れられる。が、子の死によって得た教訓は、永く家庭に生きる。愛児をして、死せざらしめる。子を、親を泣かせた子から、親を教えた知識の子として、生かすのは御法義である。高楠先生の愛であった。
(昭和四十二年二月)