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六十一 愛語 「道元禅師」

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法悦百景 深川倫雄和上

六十一 愛語 「道元禅師」
六十二 聞き場 「浅原 才市」
六十三 煩悩の過去 「九条 武子」
六十四 御報謝 「句仏上人」
六十五 無常の愛 「外村 繁」
六十六 甘受の法悦 「浅原 才市」
六十七 タノム 「宇右エ門」
六十八 汝を捨てず 「九条 武子」
六十九 おらあ とろいだで 「足利 源左」
七十 非常識 「臼杵 祖山」
七十一 罪の沙汰無益 「法然上人」
七十二 他力の信心 「憶念寺 良雄」
七十三 割れた尺八 「報専坊 慧雲」
七十四 うその皮 「浅原 才市」
七十五 心の豊満 「九条 武子」
七十六 中ぐらい 「小林 一茶」
七十七 亡き子は知識 「高楠 順次郎」
七十八 愚痴の妙薬 「浅原 才市」
七十九 恕しこそ救い 「聖徳太子」
八十 鑑真和上 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

愛語というは 衆生を見るに まず慈愛の 心を おこし
顧愛の言語を ほどこすなり
愛語を 好めば ようやく愛語を 増長するなり
しかれば 日頃しられず 見えざる愛も 現前するなり
              (道元禅師)

 道元禅師は、御開山81才の時、五十五才で亡くなられた方。曹洞宗の開祖である。弟子を養うこと、きびしいお方であった。しかし、仏道を行する者には、無限の愛が育つ。きびしさの底にあったのは、深い衆生愛であった。

 世間一般の愛は、広さをもたない。必ず憎しみが裏側にある。むしろ憎しみの中に咲くわずかな花が、世の一般の愛であるかも知れない。

 政治上の論議を聞いてもそうである。人間不信、憎悪、疑惑、怒りの会話である。若い新聞記者達の文章は、一見、民衆に愛ある人のように見える。しかし、その愛情らしきものは、必ずある一部の人に対する憎しみを込めている。その憎しみは、正義の名のもとに、よきことと思われている。

 一切の人々に愛語を用いよ、暴悪な語を用いるなと、禅師はいう。正義の名のもとに暴言を用いるな。いついかなる時も、愛語を用いて自らを訓練せよ。そうすれば愛が生じる、というのである。

 誰かを愛せずして、誰かを愛するは、本当でない。愛語で訓練せよ。

(昭和四十年十月)