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七十九 恕しこそ救い 「聖徳太子」

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法悦百景 深川倫雄和上

六十一 愛語 「道元禅師」
六十二 聞き場 「浅原 才市」
六十三 煩悩の過去 「九条 武子」
六十四 御報謝 「句仏上人」
六十五 無常の愛 「外村 繁」
六十六 甘受の法悦 「浅原 才市」
六十七 タノム 「宇右エ門」
六十八 汝を捨てず 「九条 武子」
六十九 おらあ とろいだで 「足利 源左」
七十 非常識 「臼杵 祖山」
七十一 罪の沙汰無益 「法然上人」
七十二 他力の信心 「憶念寺 良雄」
七十三 割れた尺八 「報専坊 慧雲」
七十四 うその皮 「浅原 才市」
七十五 心の豊満 「九条 武子」
七十六 中ぐらい 「小林 一茶」
七十七 亡き子は知識 「高楠 順次郎」
七十八 愚痴の妙薬 「浅原 才市」
七十九 恕しこそ救い 「聖徳太子」
八十 鑑真和上 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

心のいかりを 絶ち
おもてのいかりを 捨て
人のたごうを 怒らざれ
          (聖徳太子)

怒り

 おはなはんというテレビジョン放送劇は、ながいことたくさんの人々に見られた。劇中のおはなはんはまことに立派な人物として、画かれていた。この放送を喜んだ人の多くは、自分もこの人物のようにありたいと思って見たとのことである。

 私はそのことが、好かんのである。おはなはんの言行を支える精神が示されなかったことは、問題にされていない。おはなはんには、宗教がない。心に腹を立てず、顔にもしかめ面をせず、人を責めないというのは、おはなはんの態度でもあるが、聖徳太子憲法の心でもある。

 しかし、太子の憲法には、それを支える精神が示される。そしてその底は深い。我も彼も、ともに凡夫である。外なる言行が、心の努力で飾られているか、信仰の行動であるか。人を相手にするか、如来の中に、あるかで大違いである。

恕(ゆる)し

 それにしても近頃は、怒りがほめられすぎる。政治や社会について怒りが大手をふってまかり通る。新聞の投書にも記事にも、いかりがよきことのように述べられる。それが正義のつもりである。

 実は無責任な怒号である。最も大切で、だが難しいのは、恕しである。人を怒る資格はない。恕しこそが救いである。

(昭和四十二年四月)