「七十八 愚痴の妙薬 「浅原 才市」」の版間の差分
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2016年10月4日 (火) 17:36時点における最新版
ぐちがをきたら ねんぶつ もをせ
ぐちの明やく なむあみだぶつ
はらがたうたら ねんぶつ もうせ
ぶつは ひのての みずとなる
なむあみだぶつ
(浅原 才市)
言う
才市の信境は、私にとって遥かに遠い。極く深い信仰の人々は遂に信仰あさき者と外観が似てくるのであろうか。他力の信心を内心深くたくわえて、外相にその色をみせずということは、芝居せよ、とうのではない。そうなる、ということである。
愚痴の妙薬はお称名だ。腹立ちの火がもえたら、お称名の水で消せなどということを、中くらいの寺参りや、聞きかじりの老人が人に言うて聞かせるのをきく。
言って聞かせる形で、真宗を手に持って、言うことが真宗だとしている。手に持って居、口に持って居る程度である。お説教でも刷りものでも、そのような生活指導の言い方が喜ばれる。才市の信境は、もっと法悦が深いようだ。
讃(ほ)める
ぐちの妙薬だから、称えなさい、というのではなくて、称えると愚痴の心がはれるとは、お称名はすばらしい、と讃えているのである。怒りの火を消す水の役を果すお称名をほめている。
生活態度の表面を正すのが、真宗ではない。聞く一つである。生活態度の心の本が育てられる。行いと言葉の背後に、世間があるか、如来があるかである。
(昭和四十二年三月)