「七十二 他力の信心 「憶念寺 良雄」」の版間の差分
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一、念仏は 申さねばならぬと はげむ人に
自力あり 他力あり
一、報謝 つとむれば快く 怠れば心地あし という人に
自力あり 他力あり
(憶念寺 良雄和上)
信仰の深化
良雄和上は、百三十年前に六十二才で亡くなられました。福井県のお東の御住職でした。人々の信仰の外と内とに、深く思いをめぐらした。御法義を弘通(ぐづう)することに細かく心を用いた。
そして人の心は外にあらわれた言動でしかわからないことを、本としながら、また外にあらわれた言動は、全く同じであっても、心がちがうことも考えた。真宗念仏の人は、いかに生きるべきかを問題とした。
考えれば信仰はお育てに身をまかせる。すなわち信仰は深化する。深化するに従って心がかわる。ある場合、外形の行いや言葉は見事な他力の姿であり、それだから名僧からほめられ、実は心の自力の人もある。だから人は、自分の言い方や行いの心は、他力の考え方を反省するがよい。
功徳という語がある。自分の功徳にするか、功徳のまね事をまじまにさしてもらうか。
他力の信仰は、その深化の進みに従ってはじめて自分の功徳と思い中途で一切の功徳をなげ出して、名号の独用(ひとりばたらき)とし、後にそれ故に、及ばずながら如来のよしと思し召すことをさせてもらうようになる。お聴聞の上は、仏恩(ぶっとん)の深重(じんじゅう)な事を思って人の批評に拘わらず念仏申せ。心よりも行いである。
(昭和四十一年九月)