六十 先立ちし子 「有田 甚三郎」
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一つ二つと 石積むすべも 得知らざり
守らせたまえ 南無 地蔵尊
(有田 甚三郎)
子を
有田甚三郎という人を、私はどんな人か知りません。この人は、幼子を亡くしたのである。人の不孝の中で、先立つ不孝ほどの不孝はない。子は親よりあとまで生きねばならない。老小不定。老人が必ず先に死に、若いものがあとだと定まってはいない。しかし、逆憂いは悲しいことである。老が先で、小があとの方がまず望ましい。だから、子が親の死をとむらって泣くのは孝である。
子は親の死の悲しみを背負って泣く。けれども、子に先立たれた親の悲しみにまさる悲しみはない。その悲しみを、親に背負わせるのが、先立つ不孝である。子に死なれた親の悲しみは、身も世もない。子が幼いほどそうである。死んだ子は、さいの河原で石をつむという。幼いものの積む小善根である。小善根を以て、福徳の因縁は満足しない。
思う
幼稚園の園児を見る。腕白が威張り、幼児はむごい。石を数えも出来ぬ、積みも出来ぬわが子は、大きい子にまじって、今日もびりになって、石をつむであろう。お地蔵さま、私の子のを手伝って下さいませんか。父も母もいない河原、腕白の中に交っておろおろする子、淋しかろう。幽明をこえて思う親の悲しみである。
(昭和四十年九月)