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四十五 聖人の妻 「恵信尼公」

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法悦百景 深川倫雄和上

四十一 舞台 「池山 栄吉」
四十二 信心の智慧 「善太郎」
四十三 無我・極楽への道 「中 勘助」
四十四 独楽 「明顕寺住職」
四十五 聖人の妻 「恵信尼公」
四十六 名号成就 「一遍上人」」
四十七 自力無効 「小川 チエ」
四十八 オコタルベカラズ 「浄泉寺 覆善」
四十九 夢の王 「後白河上皇」
五十 法の妻 「二条 弘子」
五十一 流星の光ぼう 「与謝野 晶子」
五十二 ご命日 「後生口説き」
五十三 苦境にうつ鞭 「九条 武子」
五十四 帰る旅 「小泉 義照」
五十五 老いらく 「佐藤 春夫」
五十六 しのびの殿御 「お軽」
五十七 上皇遠流 「後鳥羽上皇」
五十八 赤い牛 「宏山寺 僧僕」
五十九 大盤石 「九条 武子」
六十 先立ちし子 「有田 甚三郎」
ウィキポータル 法悦百景

こぞのけかちに・・・
おさなきものども 上下あまた候を
ころさじと し候(そうらい)しほどに
ものもきずなりて候うへ
しろきものを 一つもきず候
          (恵信尼公)


聖人の妻

 親鸞聖人の妻、恵信尼さまは九つ年下の妻である。聖人が八十才をすぎられた頃、恵信尼さまは越後に移られた。聖人が九十才でご往生の時は、便りの中に、上記の一節があります。その時恵信尼さまは、八十三才位、娘覚信尼さまは、四十才位です。

七百年前は、住みにくい世でした。越後は毎年、飢渇(けかち)に見舞われました。寒い夏ででもあったのでしょう。便りに今年はうえじにするやもしれぬとさえあります。そのような世で、この聖人の老いたる妻は、ひとりどのようにして暮してゆかれたのであろうか。越後には、お子様達があちこちに住んでいましたが、亡くなった長女の子、数人。益方入道という、第四男の子達も育てていました。

聖人の孫

 何となく母になったような、と便りをかきながら、おばあちゃんは八十余才。着物もやぶれ、よごれ、孫の世話をしました。育ちざかりは、よく食べる。小さいのは手をとる。殺してはならぬ、ばばはうえても、死んでも、孫達は、あの良き人の孫だから、殺さじ、と。

(昭和三十九年六月)