五十八 赤い牛 「宏山寺 僧僕」
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これ僧僕 わしが死んだら 何になるか
ハイ 御門跡さま 台下は
死なれますると牛に お生まれでありましょう
しかも 緋の衣を 着て居られまするで
定めし 赤牛にお生まれで ありましょう
(陳善院 僧僕和上)
牛になる
僧僕和上は富山県に生まれ、一七六二年(約二百年前)亡くなった和上です。年四十才。学徳兼備の教育者で、英才、雲の如く排出した師でありました。本願寺の門跡は、時に法如上人。ありがたいお方である。死んだら何になる。牛になるという会話を、味なく読んではならぬ。これ、真面目な話である。僧僕和上は偉い。
御門跡といえども、牛にも馬にもなる、地獄ゆきである。わしが死んだらどうなる、と問わるれば、牛になるとでもいわねばならない。牛には赤牛というのがいる。赤牛も黒牛も、きっと前の世で、煩悩にいっぱいの生涯をすごしたのであろう。僧僕和上自身も、門跡を責める資格のない泥凡夫。門跡のあとから、また牛になど生まれる業をつんでいる。
仏にする
しかし、その牛に当然なるものが、今度は仏にされるというのである。仏になるというより、仏にするのだ。そう告げ続ける。本願がすばらしい。牛になる、赤牛になるという会話は、必ず牛になる者が、必ず仏にするという本願への確実な讃(ほ)め言葉である。本願不思議、広大な仏恩への驚嘆である。門跡と和上、必ず牛になる二人が、本願の野放図な力を讃えている。
(昭和四十年七月)