九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
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ある時 家族の誰かが死に臨むと
残る者と 別れを悲しみ 切に慕いあう
憂いに胸ふさぎ 恩愛の情で 心を痛めて恋慕する
年月がたっても心が開けず よしみが忘れられない
みな愛欲をむさぼり 道に惑うて 悟る者が少ない
(無量寿経)
凡情
お盆である。新盆のお宅では提灯が下げられていかにもお盆らしい景色である。さて、そこへ客が来る。盆にかぎらない。中陰法要、葬式などでも更にそうである。それらの時、しきりに亡き人を悼み悔むをもって、可(よし)とする空気がある。葬送において殊に然りである。重病の頃はやたらに死を恐れ、死を語ろうとしない。どうせ死ぬ病人と内心思いながら死をかくそうとする。死んだとなると泣くをもって孝とし、純情と心得ている。それが仕方のない凡夫の情である。しかし当人達は、仕方のない情どころか、故人を恋慕する事は美徳であり宗教的であるとおもっている。実は全く本能的であるのである。
信仰
恩愛の情で涙することは、御院家さまの喜ぶ所ではない。凡夫の鍛えられざる精神の浅ましい姿である。仇討ちの精神の裏返しでしかない。
念仏の心はそれとは違う。信仰に鍛えられない心ですなわち凡情で可とする事が必ずしも念仏の心で可とはしない。
慈悲の心とは、肉親・知友にのみ涙する心ではない。一切衆生、悪人も涙する心である。
(昭和四十三年八月)