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八十五 おぼえている 「九条 武子」

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法悦百景 深川倫雄和上

八十一 行動の人 「足利 源左」
八十二 案ずるな 「浅原 才市」
八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」
八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」
八十五 おぼえている 「九条 武子」
八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」
八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
八十八 おぼつかない足 「九条 武子」
八十九 真の仏弟子 「善導大師」
九十 泥華一味 「浅原 才市」
九十一 睡眠章 「蓮如上人」
九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」
九十三 表現の背後 「蓮如上人」
九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」
九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」
九十七 冥から冥へ 「無量寿経」
九十八 今日の生 「九条 武子」
九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」
百 百代の過客 「松尾 芭蕉」
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片すみに 追いのけられて それのみか
忘られはてし われにやはあらめ
               (九条 武子)

 毎年九月になると新聞をはじめとして、世間さまざまに老人を思い出す。敬老の行事があり、年寄りにやさしい言葉がはやる。十月からあくる八月までは忘れられている。それでも九月に思い出してもらえるのは、敬老の日を決めてある政治のおかげであろうか。老いてゆくということは、世の片すみにおしやられてゆくということであろうか。老人はさびしいのである。

 片すみにおしのけられるということは、さびしいことである。それでもおぼえていてくれる、ということはうれしい。忘れられてしまう、ということほどおそろしく、つらいことはない。つまらぬ者でございます、とは申せ、あなたは誰でしたかね、といわれる程、悲しいことはない。

 おぼえているということは、最後の愛情である。単におぼえているだけでなく、真中においてちやほやしてもらいたい。ところが、ちやほやする人より、じっとおぼえている人の方が愛情は深く大きいのではないか。

 おぼえているということは、最も深い愛情であろう。おぼえているぞという呼び声がうれしい。

(昭和四十二年十月)