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百 百代の過客 「松尾 芭蕉」

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法悦百景 深川倫雄和上

八十一 行動の人 「足利 源左」
八十二 案ずるな 「浅原 才市」
八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」
八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」
八十五 おぼえている 「九条 武子」
八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」
八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
八十八 おぼつかない足 「九条 武子」
八十九 真の仏弟子 「善導大師」
九十 泥華一味 「浅原 才市」
九十一 睡眠章 「蓮如上人」
九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」
九十三 表現の背後 「蓮如上人」
九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」
九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」
九十七 冥から冥へ 「無量寿経」
九十八 今日の生 「九条 武子」
九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」
百 百代の過客 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

月日は 百代の 過客にして 行きかう年も また 旅人也
              (芭蕉)

 芭蕉は俳聖と呼ばれる。俳句に志して旅に住んだ。われら一処に住する者には理解しかねる芭蕉の心である。

 近頃はいろんな旅がはやる。旅行が好きという人も居る。実は旅はつらいものだ。年中旅を続けねばならなぬ職の人があるが、辛かろうと思う。

 芭蕉の旅は、招待されての旅ではない。放浪である。辛い旅に身を晒してその辛さに鍛えたのであろうか。旅は仮の宿である。旅人は遊子である。あてどなきさまよいである。彷徨である。徘徊である。

 旅は捨て歩きである。逢う人も、山川も捨て捨てて歩きゆくのである。振り返らないのである。情を重ねることは出来ない。一返きりである。わが心の情を知る者なき郷を孤(ひと)り、一返行くのである。

 旅は寂しいのである。どんな美人の愛情に触れても、親切に逢っても重ねることなき飄(さすら)いである。

 情を重ねたいもう一度というのは、下司なのだ。さらりと捨て別れるのである。人生は旅である。年月を捨て行く旅である。

 だからその時が、大切である。
 いつもその時、後生一大事である。

(昭和四十四年三月)