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八十八 おぼつかない足 「九条 武子」

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法悦百景 深川倫雄和上

八十一 行動の人 「足利 源左」
八十二 案ずるな 「浅原 才市」
八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」
八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」
八十五 おぼえている 「九条 武子」
八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」
八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
八十八 おぼつかない足 「九条 武子」
八十九 真の仏弟子 「善導大師」
九十 泥華一味 「浅原 才市」
九十一 睡眠章 「蓮如上人」
九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」
九十三 表現の背後 「蓮如上人」
九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」
九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」
九十七 冥から冥へ 「無量寿経」
九十八 今日の生 「九条 武子」
九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」
百 百代の過客 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

おおいなる もののちからに ひかれゆく
吾が足あとの おぼつかなしや
                (九条 武子)

無憂華

 二月七日は武子夫人の忌日である。世に如月忌という。昭和三年である。その昭和二年七月、無優華一巻が出版された。その巻頭の一首が、この歌である。その時、歌の師、佐々木信綱博士に三首の歌を送って、一首を選んでもらったのであった。

 人は信念をもって生きることは、よきことという。果たしてそうであろうか。信念とは何か。武子夫人は、大いなる力に引かれて歩むという。自分の自身足どりは、実はおぼつかない。しゃんとしろ、しゃんとしよう、と思うけれどねェ。しゃんとしているつもりではあります。しゃんとせねば、と思うています。大きい力に、実は引かれている。なさけないことながら、しゃんと出来ない。ああ引かれてゆく。業である。業力である。従って、わが全生活は、おぼつかない足どりの旅でしかない。

願力

 とても信念などというものではない。この迷酔の中に、弥陀の大願力を聞いた。弥陀を信じた。念仏は、無碍の一道と存じ、信は力なり、とも思った。だが、日頃何をしておるか。

 信仰を生活に生かす。嘘をいうな。申しわけない、おぼつかない足どりである。私はただ多いなる仏力に引かれ迷妄の歩みのまま往く。私を引く如来の力は大丈夫だ。

(昭和四十三年二月)