八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
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目もみえず候 なにごともみな わすれて候
ひとなどに あきらかに まふすべき身にも あらず候
(親鸞聖人 八十五才)
お講
あけましておめでとうございます。お東の句仏上人の句に、
歳旦の 目出たきものは 念仏かな
とあります。この新年は、お講の月であります。親鸞聖人の一生は、別に雪の中のみではなかったけれども、雪が降ると忘恩のわれも聖人を思います。お取越しを雪に降られて、モンペ長靴で家々をまわりながら、昨年十二月ありがたいことでした。その御開山さまも老いきわまって、目もうすく、もの忘れの方になられました。今、御老人をおもちの方は、老後の御開山さまのように思って、お仕えなさるがよいでしょう。この衰えの聖人は、親鸞は弟子一人ももたず候の生涯であった。すなわち人に明示、断言する程の権威者ではない、と言われるのである。それは世にある謙遜ではない。本当にそうなのである。
忘れる
真宗のお説教は、ぼんやり聞いてすぐ忘れるのが上等である。これは本当であり、とても意味が深い。仏教の道の大切なことは、忘れることだ。忘れようとして、忘れられるものではないから、忘れることが、一番むつかしい。人を金を功績を失敗を憎しみを教義を忘れられずに苦しむ。
聖人は忘れて救われていった。
(昭和四十三年一月)