「九十一 睡眠章 「蓮如上人」」の版間の差分
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2016年10月4日 (火) 17:36時点における最新版
いのちの あらんかぎりは
われらは 今の ごとくにて あるべく候
いのちのうちに 不審も とくとく はれられ候はでは
さだめて 後悔のみにて 候わんずるぞ
(蓮如上人)
御文章はすべて八十通、それぞれにのちに呼び名をつけてあります。第一帖第六通は、睡眠章といわれる。今年の夏は殊に眠たいがどうしたことであろう、と始まる。
われわれは一家を構えているにしろ、いないにしろ、火の用心をする。一生のあいだに、何千扁、火をもとを見直すだろうか。火の用心がうるさいと家族からいやがられる。
過(か)
なぜ過ぎるという字をあやまちとも読むのであろうか。とが、と読むのであろうか。罪過と熟し、過失と熟し、過去とも使う。過去と過失と何が共通するのであろうか。
家族にいやがられる程、火の用心をしても、一度火事になれば、すべては灰である。何遍用心したのも役には立たぬ。灰の中で泣いても家はもどらぬ。過ぎたことは、失ったことである。火事の前触れはない。
われわれの罪は、わびて済むものではない。それは、いのちの終りに似ている。死の前触れはない。死の前日まで、今日のような日である。今日は確実、いのちのうちである。
(昭和四十三年五月)