「八十五 おぼえている 「九条 武子」」の版間の差分
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片すみに 追いのけられて それのみか
忘られはてし われにやはあらめ
(九条 武子)
忘
毎年九月になると新聞をはじめとして、世間さまざまに老人を思い出す。敬老の行事があり、年寄りにやさしい言葉がはやる。十月からあくる八月までは忘れられている。それでも九月に思い出してもらえるのは、敬老の日を決めてある政治のおかげであろうか。老いてゆくということは、世の片すみにおしやられてゆくということであろうか。老人はさびしいのである。
片すみにおしのけられるということは、さびしいことである。それでもおぼえていてくれる、ということはうれしい。忘れられてしまう、ということほどおそろしく、つらいことはない。つまらぬ者でございます、とは申せ、あなたは誰でしたかね、といわれる程、悲しいことはない。
憶
おぼえているということは、最後の愛情である。単におぼえているだけでなく、真中においてちやほやしてもらいたい。ところが、ちやほやする人より、じっとおぼえている人の方が愛情は深く大きいのではないか。
おぼえているということは、最も深い愛情であろう。おぼえているぞという呼び声がうれしい。
(昭和四十二年十月)