「八十二 案ずるな 「浅原 才市」」の版間の差分
提供: Book
細 |
細 (1版 をインポートしました) |
(相違点なし)
|
2016年10月4日 (火) 17:36時点における最新版
わしのこころは くるくるまわる
ごをのくるまに まわされて
まわらばまわれ りん十まで
これからさきに くるまなし
とめてもろたよ なむあみだぶつ
(浅原 才市)
業火
お念佛の信仰とは、一体いかなるものか。どうあるべきか。そりゃあ難信の法であると言われるので、わたしごとき者は、そう簡単にはっきりはせぬだろう。お聴聞をかさねないわけではない。どうもならないではないか。しずごころになりもせず、ごく明朗にもならぬ。才市さんのうたにこんなのがある。
しゃばの宿も また暮れた 浄土の宿と なるぞ嬉しき
今日の一日もあれこれと心はめまぐるしくまわりまわりおわった。煩悩の火車ではある。お称名したとてとまりはしない。所詮これ、もの想い狂う生涯であるか。お聴聞をかさねたらすこしはましになるはずじゃと考えるのはあやまりであろうか。
決定(けつじょう)
まかせるということは、これから先について、あれこれと案じないということである。もって来た業がおわらねば、浄土には参られぬ。その業は、悪業のみ。承ると如来はこのどうにもならぬ業の中に住み込み給うて、もう苦しみの待ちかまえたかなたへの縁を、断ち給うという。案ずること勿れ。
(昭和四十二年七月)