「九十八 今日の生 「九条 武子」」の版間の差分
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2016年10月4日 (火) 17:36時点における最新版
こし方も 行末も見ず たまゆらの
われと思ふに 生のたふとさ
(九条 武子)
過去
あけましてお目出度うございます。去年は過去であるのに、去年の思いでは面白い。何か過去を今も手の中に持っているような感じでおりますので、すかっとしません。写真を出して見、旧友と語り、日記を開き、あれこれ過去を眼前に取り出しては、なで回す感じであります。
実は過去は刻々と無である。零である、0(ぜろ)である。空しき過去の栄光を誇ること勿れ。もし過去を大切にするなら、記憶以前をも大切にしなくてはならない。前生(ぜんしょう)があったのだ、という仏教を聞き入れねばならぬ。処が前生の記憶はありません。
未来
これからの行末に希望をもちます。青年には夢があると申します。明日には夢があり未来には希望がある。そんなら、後生(ごしょう)があるという、仏教を聞き入れねばならぬ。処が後生は見たことがない。
現生(げんしょう)
昨日は空しき過去であり、明日は淡き夢である。今日は私の手中にある。今日の生が大切である。人間は刹那の生き者であり、淡き空しき生き者であるか。
私は父と母を恋う。記憶以前の私のことを、父にきいて見たい。赤ん坊の私を抱いた母に逢って聞きたい。
(昭和四十四年一月)