「九十三 表現の背後 「蓮如上人」」の版間の差分
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さて 自然(じねん)の浄土に いたるなり
ながく生死(しょうじ)をへだてける
さてさて あら おもしろや おもしろやと
くれぐれ 御掟ありけり
(蓮如上人)
仰
文書というものは、心持を伝える力に限界がある。手紙より電話の方が良い。信仰において殊にそうである。この会報も、私を知らない方には、ぴんと来まい。文書が万全でないことは、承知しておくがよい。蓮如上人を去ること五百年である。われらは御文章などで接する外ない。上人のお説教をじかに聞き見てはいない。
お説教は顔と声に接して聞かねばならぬ。このぎこちない世界から自然(じねん)の世界にゆくのである。自然とは、無理なことをいう。朝から晩まで無理の連続である。それが生死の世界である。何もかも無理から無理のこの世である。この生死の世界から永遠に、へだたるのが信仰である。生死(まよい)のこの世にありながら、それをへだてて無理のない浄土へ至る道を歩む。それが念仏である。
化(け)
蓮如上人は、大きく深く弥陀の救いを仰がれた。残されたお言葉は、信心をとれ、弥陀をたのめ、うかうかするな、というのが多い。われらに向けての教化である。しかし上人自身は、ほれぼれと弥陀を仰いだのである。下を化する後ろに上を仰ぐ態度があった。
態度は残らない。問題は態度だ。
(昭和四十三年七月)