「九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」」の版間の差分
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よろこびすでに近づけり 存せん事 一瞬に迫る
刹那のあいだたりというとも 息の通わんほどは、
往生の大益をえたる仏恩を 報謝背ずんばあるべからず
と存ずるについて かくのごとく 報謝の称名つかまつるものなり
(太郎入道 覚信)
正念
覚如上人は、御開山さまの曾孫である。その『口伝鈔』につたえるところ。
覚信房は、京都で重病になった。晩年の御開山聖人のお宅である。臨終の覚信房、お称名おこたりない。息は荒い。苦しげの中に、念仏強盛なるは神妙である。ただし、心持に不審あり。いかに、と聖人がおたずねになった。覚信房が答えたのである。もうすぐです。広大な御恩でございます。息引き取るまでお礼を称えます。このとき聖人、年来の友として、一緒にすごした甲斐があった、と御感のあまり、随喜の御落涙、千行万行なり。
一般にどうしても抜きがたい考えは、臨終の正念である。死に際は静かであり、お称名したり、笑ったりすると、いい往生であったという。全然不可。
乱想
当人も看病人も誤っている。死に際がよいと看取りの人が安心しているだけである。問題はその人の人生である。平生である。死に際、一瞬の乱想など、当然いろいろある。当人も看病人もそれぞれ人生、平生が問題だとせぬから、死に際をたのむ。一生乱想のみ。臨終の正念で帳消しにしようとは、浅ましい。
(昭和四十三年六月)